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2012年12月26日水曜日

車椅子がやってきた

11月から、痛み止めに麻薬を使っている。痛みは何とかコントロールできている。しかし、大腿骨に転移した癌の憎悪が原因で、右足が麻痺して歩けないので、杖を使ってゆるゆると歩いていたが、外出は難行になってしまった。

やはり一人暮らしは厳しい。買物も行けないし、掃除もままならないし、余命も余り無いことだし、ということで、姉に頼んで市に介護保険の申請をしてもらった。この手続きは、日本の行政では例外的に、とても早い。介護が産業になっていることもあり、びっくりするくらいのスピードで色々なことが進んでいく。

先々週、ケアマネージャーに会い、掃除が出来ないこと、ベッド、車椅子が必要なことを伝えると、直ぐに電動ベッドと車椅子が家に配達された。私は自分が人生で車椅子を使うようになろうとは全く思っていなかったが(父母とも使っていないし、発病する前までは運動オタクで体力と健康には自信が過剰にあった)、今では外出の必需品になっている。

家から数分の距離の駅前に行くのにも、数十分かかり、帰路は疲れるので途中休憩が必要で、戻るとぐったりして寝込んでしまったから、ここ一月は病院通いの他は外出はしていなかった。買物は姉に頼み、掃除はおざなり。料理は全くせず、買ってもらった惣菜をチンするか、時々来てもらう友人の料理の冷凍したのを食べるのみ。とにかく、一日中寝ていて、頭はぼんやりしていて、痛みがあって、TVばっかり見ていた。

それが、車椅子が来て使ってからは、一人で外出も出来るようになったためか、人生がずいぶんと明るくなったような気がする。映画も見に行きたいなと思うようになった。能は、どうだろうか。駅前にある映画とちがい、会場が遠すぎるので一人では無理かもしれない。

この間、人生で最大の痛みも経験した。麻薬を使っていても、抑えられない痛みがある日の夜襲ってきた。右大腿骨の癌が暴れているのが自覚できる。右足に怪物が住んでいて暴れている。痛さは尋常でなく、泣き喚くしか対処法はなかった。近所の病院の救急に行くことも考えたが、手当ての方法があるとも思えず、また主治医のいる病院は遠いので、車内の揺れや、病院に到着してから手当てまでの待ち時間の長さを考えると、家で我慢することにした。だが、痛みに耐えられず、処方された薬を多めに飲んでしまった。これが後で大問題になったのだけれど、痛みは朝までには何とか収まった。

痛み止め担当の医師は激怒しており、処方量を守れないなら、治療は今後継続できないかもしれない、と叱られた。ごもっともです。反省しています。もう二度としません。ごめんなさい。でも、本当に痛かったのよ。自殺したいくらい、痛かった。医師によれば痛みには波があるという。どうやら最大級が来てしまったようだった。これからも来るのかな。不安になり、今後は地元でも夜間治療できる可能性があるのか、調べたい。

ぼくのチャリ男くん。


故郷の山は大山

NHKで、年末番組で、東北特集をやっていた。震災で、故郷の町が瓦礫の山となり、多くの人が亡くなり、ある人は、財産も、住む家も、家族も、知人も、勤め先も失った。でも故郷の景色は、震災後も変わらず、桜は咲き、山は色とりどりに紅葉し、海は青い。そして、番組では、そんな過酷で厳しい故郷なのに、離れられない、離れたくないという東北の人々の気持ちを写し出していた。

6年程度しか住んでいない家の窓から見える大山を見る度に、なんだかほっとする。神奈川だと恐らくどこからでも普通に眺められる山なのだが、筑波山や富士山と違って、東京からは見えないようなので(見えていても、高峰でないのと、繋がっている丹沢山系の方が高いので、目立たないせいか)、有名な山ではない。江戸時代には大山詣はとても盛んで、落語に良く出てくるので、江戸庶民には親しい山だったようだけれど。

故郷に愛着がないのは、自分の家に愛着がないためと思う。子供の頃から、早く家を出たかった。学校も好きでなかった。何もかもが違和感があって、自分の世界でないように思っていた。何故だろう。良い所なんだけどね。住むには、物価は安いし、土地百坪の一戸建ての家が20代で建てられるし、車でどこへも行けるから、便利ではあるのだけれど。

オランダに住んでいる従兄弟が先日帰国の折り、見舞いに来てくれたので、故郷の話になった。彼女も故郷が好きでなく、早く家から出たいと思っていて、卒業後旅行会社に就職し、オランダに赴任し、そのままになってしまったらしい。僕も留学時に、日本に戻りたくないと思っていたので、機会があれば(実際には無かったけれど)、別の人生になっていたかもしれない。

ぼくにとって懐かしい気持ちを起こすものは、今は大山の景色で、赤城山でも利根川でもない。室生犀星のように、故郷が憎い訳でもない。朔太郎の詩は好きで、彼の詩に読まれた前橋郊外の景色、自然は懐かしく感じるけれど、あくまでも詩の中だけであって、現実の前橋の町を懐かしく思うことは全くない。

だから、故郷に執着する人の気持ちが、今ひとつ分からない。

歩いて行けた最後の音楽会。NHKホールの最後列からの舞台の眺め。遠いが、音響は良かった。



2012年12月13日木曜日

転移癌が憎悪

このところ、更新が出来ず、じろうさんを始め、ご心配頂いた方からメールを頂きました。ありがとうございました。

アビラテロンは、大変に良く効く薬とされているけれど、転移癌への効き目が悪いのだそうだ。私もこの数週間で病勢が悪化し、大腿骨へ転移した癌が憎悪しているようだ。このため、神経、筋肉の痛みが増しており、今までもらっていた痛み止めでは、痛みのために、夜全く寝られなくなっしまった。また、足が麻痺のため、うまく歩けなくなり、外出は殆ど出来なくなった。治験は放射線治療を禁止しているので、治験を止めて、放射線治療で骨の痛みを止めることも考えたが、もう使える薬がない状況だし、今の薬を止めた途端に、骨に転移した癌の憎悪が急速に進み余命も殆ど期待できないだろうから、より強い痛み止めを出してもらうことにし、痛み止めに麻薬を追加してもらった。

麻薬は一応良く効いている。でも、一定の時間を越えると、効き目ががくっとなくなるようで、そのときの痛みはものすごかった。あまりの痛さに泣き喚いてしまった。一人暮らしなので、泣いても意味ないのだけれど、それほどに痛い。

足の麻痺が進んで歩けない、長時間座っていられないなどから、外出も駄目になった。唯一の楽しみだった能を見にいくことも無理になった。車椅子での移動なら外出も出来るけれど、一人では怖い。近所のスーパーも行けないので、買物は姉に頼んでいる。

終活を始めたほうがいいのだろうか。でも何をしたらいいのだろう。家族、友人には病状を話し、余命が長くないことを理解してもらった。後半年くらい生きられればいいな。痛みなしで。

こんな状態なのに、年金事務所からは障害給付は不至急との通知。がっかり。

勤め先の会社の知人からお見舞い。有り難い。






2012年10月27日土曜日

ホルモン療法と男らしさ

前立腺癌の成長には男性ホルモンが必要なのだそうだ。内分泌療法は、だから体から男性ホルモンを取り除くことを目的とした治療になる。昔は、手術で去勢が行われていたそうだ。今でも治療費が安いので、一部ではやられているそうだ。しかし、やはり手術には抵抗があるのだろうか、専ら薬で、注射で、化学的に男性ホルモンを抑えることが一般的だ。

ただ、男性ホルモンは精巣(睾丸)から生成されるだけではなくて、副腎からも男性ホルモンの類似物質(アンドロゲン)が出ているため、これも抑えないといけない。それで抗アンドロゲン剤でこれも抑える必要がある。

ホルモン療法は、男性ホルモン(テストステロン)も、アンドロゲンも抑える療法なので、男性としての機能は、仮に物理的には残っていても、殆ど機能しないことになる。男性ホルモンが手術や薬によって去勢されれは、当然勃起や射精に影響が出るだろうし、もし出ないのであれば、男性ホルモンが除去されていない可能性が高いということになる。

ということで、ホルモン療法や、その後のエストラサイト(女性ホルモン剤)は、男性の機能に大きく影響する。エストラサイトは女性ホルモンなので、乳房が出てくるなど、外見的な面まで作用していく。どちらも、男として長く生きてきた人間にとっては厳しい選択だ。命には代えられないとしても。

プロゴルファーの杉原輝雄が、前立腺癌と診断されて、一時ホルモン治療を拒んだという話を新聞で読んだことがある。男性ホルモンを除去すると、男として闘争本能がなくなるから、プロゴルファーとして続けることができなくなってしまうから、というのが理由だったように記憶している。命より、仕事、男としての機能を選んだということなのだろう。(がんサポートに詳しい記事が載っていました。)

映画監督の深作欣二も、前立腺癌と診断され、治療を拒んだため、手遅れとなったという話を読んだ記憶がある。

ある友達に、ホルモン療法を始めたこと、いろいろ副作用があるということを話したら、「それで、お前、今も勃起するの?」と気楽に聞かれ、とっても落ち込んだことがある。男だから、男性機能を失う、さらには体つきも女性化するというのは、深刻で悲しい事態なのだけれど、何の思いやりもなく、そう聞かれ、とてもがっかりした。乳癌や子宮癌を患う女性も、同じような複雑な気持ちを持つのではないだろうか。患者以外の人間にとっては、男らしさや女らしさを失うことが、どんなに本人にとって重大なことか、気がつきにくいのかもしれない。命のが大事だろうと言われてしまえばそれまでだし。でもね、旦那さんがホルモン治療を受けた場合、奥さんは、男性機能について、旦那さんと会話できるのだろうか。奥さんが乳癌の患者だったとして、ホルモン治療を受けているとき、夫とはどんな会話をするのだろうか。或いは全く触れないのだろうか。

今飲んでいるアビラテロンも、男性ホルモンを抑える薬なので、男性としての機能は大きく影響を受けている。性生活など、最早ないし、死ぬよりはましと諦めているので、全く構わないのだけれど、もし構う人がいたとすれば、その人にとっては深刻な治療法だろうと思う。

男性ホルモンの抑制は性格にも影響するような気がする。昔はときたまキレたり、激怒して怒鳴ったり、仕事でも、闘争心というか、ものすごく挑戦的な気持ちがあったと思うけれど(会社では若い頃から生意気な奴と言われ続けてきた)、今は怒ることなし。闘争、挑戦など、全くそういう気持ちにならない。面倒くさいことは全て回避。高望みはしない。苦労など考えたくも無い。揉め事には関わらない。平穏で静かな生活がしたい。女性には怒られそうだが、なんだか女性的な性格になったような気がする。

結構微妙で深刻な問題なのに、医師は治療の方が重要と割り切っているし、それについては、患者は諦めざるを得ないのだが、こうした面のつらさについてはあまり語られていないような気がする。
まるで花火のような国立劇場大劇場のシャンデリア。



2012年10月24日水曜日

全がん協の生存率データ

NHKのニュースで、全国がんセンター協議会(全がん協)が全国のがんの生存率を発表したというので、早々アクセスして見た。前立腺癌で、病期4(遠隔転移あり)で、50歳代の場合、50パーセント生存率は5年超となっている。症例数は期待した程ではなかったけれど、一応最新データらしいのと、症例数がまとまっているのと、全国のがんセンターを網羅している数値らしいので、信頼性は高いのかもしれない。

すい臓がんの数値が驚異的に低い。それに比べれば、半数が5年たっても生きている可能性が高いというのは、辛い事実ではあっても、余命が長いということなのだろう。かつては3年以下と言われていたのが、ドセタキセルが利用可能になったことが影響しているのだろうか。

しかし不可解なのが、データが最新といいつつ、2004年までのデータとなっていること。これでも最新?何かの間違いかと思うが、これだと最新ではないのでは。2004年に治療開始で、5年で2009年ということ?2004年当時だとドセタキセルはまだ治験段階かもしれないし。

他の病気で死ぬ場合もあるので、補正もされていること、データの信頼度についても解析されていることから、一応参考にはなる。

前立腺癌で骨に転移していても、半分程度の人は、5年は生きられるのね。でもホルモン剤、化学療法が2年弱で無効となった私のような場合にも5年超生きられたのか、どうか。恐らく、5年生きられない半数の方に入っていた可能性が高そうな気がする。(今でもまだ治療開始から2年2カ月しか経っていないのだけれど。)

大学病院は何故か全がん協には入っていないため、データの対象外なのが残念な限り。


ひいらぎの花。小さくて気がつかなかったが、良い香り。花が咲くとは知らなかった。咲かないと赤い実がつかないしね。

2012年10月19日金曜日

何もしない毎日

アビラテロンの治験開始から約二月経過した。PSAは通っている病院では直ぐに検査結果が出ないため、どうなっているのか分からないのだが、体調は良くなったり悪くなったりを繰り返している。大腿骨への転移を原因とする神経の痛みは治まったものの、腰痛は完全に無くならず、ヘルニアの痛みが時々出る。また疲労感があり、先週末は二日間寝込んでしまった。何の運動もしていないのだけれど、むやみに疲れる。肝機能は正常値なので、肝臓ではないらしい。化学療法を始めたばかりの頃は水泳のドリルなんかが出来ていたから、その時よりずっと運動機能は低下している。筋肉はほぼ無い状況。男性ホルモンもないので、足が浮腫み、痛くて寝られないことがある。冷え性にもなり、ホットフラッシュもかなりきつい。更年期障害のきつさを味わう毎日。

毎日が暇だ。でも好きな運動は無理だし、長距離を歩くと疲れるので、出来ることは限られる。本も集中すると疲れる。ビデオも同様。

先週母親に会いに行った。普段あまり会話はしないのだけれど、「最近はなにをしているの?」と珍しく聞かれた。「何もしていない。」と答えると、「勉強はしていないの?」と聞く。何も勉強してないなあ、と考えているうちに、気分が落ち込んでしまった。

私の母親は、家事を「馬鹿な女のする事」と定義しているらしい。そうはっきりと言ったことがあるのを覚えている。彼女には、家事よりも、もっと崇高な仕事があるので、家事に割く時間はもったいないのだそうだ。彼女の家は、その結果ゴミ屋敷状態となり、じゅうたんの埃を隠すため、別のじゅうたんをその上に敷き、買物依存の彼女が買った衣服を入れる場所がないため、家中に箪笥を置いたため、まともに歩けず、彼女と父親の溢れ帰る物で家の中は座る場所がないほどだった。片付ける才能ゼロ。発達障害なのではないか、と私は睨んでいるのだが、整理整頓が全くできない人だった。あるときから家事はしないと宣言し、掃除を含め、最低限のことしかやらなくなった。そういう考えの人なので、「毎日病気療養で暇だろうから、当然何か勉強でもしているんだろう」というつもりで聞いているようだった。何もしていないのは事実だが、話していて、何もしていないことに自分でも驚いた。恐らく病気の原因にも関係しているようにも思う。

私は仕事の計画を作るのが好きだった。勉強も好きだったし、論文も書いた。勉強をすることは、毎日の積み重ねだ。まず研究の目標を立て、そこに近づくための予定を立て、調査をし、メモをとり、考えをまとめ、成果物を作りあげていく。仕事も同じで、目標を決め、そのための段取り、計画、予定を作り、毎日実施、チェック、フィードバックを繰り返すから、勉強とあまり変わらない。毎日こつこつと何か考えていないと仕事は達成できない。勉強も研究も同じと思う。だから、朝から晩まで勉強漬け、仕事漬けでも問題はなかったし、そういうものだと思っていた。

だから、今何もしていないし、考えていない自分がとても不思議だ。それを母親から言われると、嫌な気持ちになった。癌になったのも、仕事ばかりで、休みなしに猪突猛進に、色々なことを切捨ててきたことへの報いなんだろうか。

とにかく、ドセタキセルを機会に、会社を休職し病気療養に入ると決めた段階で、何もしない、考えないことにしたのだった。とはいえ、それでも毎日何かしないと不安で、癌について調べたり、水泳で体力をつけようとしたりしていたのだったが、今ではそれも止めて、ぶらぶらしている。将来のことを考えても、将来はないし、幸い妻子もいないので、その面の不安も心配も不要だし。

家事は、一人分だとあっという間に終わってしまう。病人でも出来る。でも、これでいいのかな、と時々考える。「生きてきた証はね、何もないね。それでも良いのかな?」

美術館の喫茶室で、ケーキを食べた。クリームたっぷりで、食事療法的に問題なのだけれど、たまには眼をつぶろう。

2012年10月8日月曜日

治験を探すには

私の病状では、ドセタキセル(タキソテール)は効き目がなくなっており(とても効き目が弱くなっており、が正しいかもしれない)、副作用がひどくなっていた。その後に使える薬は日本ではない。標準治療として国が使用を認可した薬はない。緩和治療で、死を待つか、免疫治療、代替治療で頑張るかしか手はない。

ところが欧米では、数種類の新薬が認可されているが、これを日本で使うには、海外に治療に出かけるか、薬を個人で輸入するか、治験に参加するしか選択肢はない。前の二つは費用面、体力面で結構ハードルが高い。

治験は、藤野邦夫さんの定義によれば、「製薬会社が厚生労働大臣の承認をうけて医療スタッフと医療設備が整っている施設に依頼し、実施してもらう治療実験のこと」だそうだ。

参加したければ、製薬会社のホームページか、新聞広告で見つけ、自分で調べ申し込む方法もあるとされている。実際にまーさんは、こうした方法で見つけられている。しかし、私も調べて見たが、良く分からなかった。

ペプチドワクチンについては、多くの大学が治験をやっているようだが、どこも「やっているという事実」を発表しているだけで、情報はそれだけだった。唯一、久留米大病院がHPで丁寧に説明し、公募もしており、分かりやすかった。

日本国内で実施されている治験は、全てUMIN臨床試験登録システムに登録されており、HPで見られると藤野氏は「ガンを恐れず」で述べている。しかし、どうもそうなっていないようで、完全なリストになっていないような気がする。前立腺癌について検索しても、あまり出てこない。

治験に参加した患者の多くは、通っている大病院の医師から、参加しないか、と声を掛けられたというもののようだ。私の例もこれに近い。他の癌の患者さんについて、知っているわずかな例も、どれも医師から勧められたものだった。

今通っている病院の治験コーデイネーターの看護士に聞いてみたところ、治験は製薬会社が病院を選ぶのだそうだ。もし、私が製薬会社に勤めていたら、厚生労働省の審査を通すことが目的だから、治験先は、まずその癌の患者の分布に近いものにしようとするだろうと思う。殆どが70代、80代の患者の病気に、30代の患者のデータは数多くは揃えないだろう。また、患者は人口比で大都市に多いだろうけれど、全国的にデータを取る配慮を政治的な理由からすると思う。患者数は少なくても、最低限の地方のデータも必要だろうと思う。また、大量のデータを記録、分析する必要から、人手のない病院では無理なので、大病院を選ぶと思う。となると、大学病院か、地方の拠点病院、がんセンターなどに治験が集中するだろう。また、製薬会社間の競争があるので、同じ癌の薬は、同じ病院には頼まないらしい。A社がA病院に治験を依頼すると、B社は別の病院を選ぶらしい。そして情報収集のためには、大都市圏よりも、地方の方がそもそも大病院の数が少ないこともあり、有利かもしれない。

恐らくは大病院の治験管理室に片端から電話をして、或いは訪問をして、治験について尋ねるのが一番なのだろうが、体力、気力の衰えた状況では、まずもって出来そうもない相談のような気がする。また治験の参加条件には、自力で病院に来れること、というのがあるため、病状が進むと受けられない。

結局元気なうちに探しておかないと無理のようだ。

一方で、治験は製薬会社にとってお金が掛かるため、サンプル数は有限だ。だから募集期間を過ぎて参加できる可能性は少ないだろう。

となると、やはり通っている病院から声を掛けてもらうのが一番なのだが、通っている病院がそういう大病院でない場合はどうするか、といえば、難しいとしか言い様がない。患者が極端に集まるがんセンターなど、治験目的の転院は門前払いだろうし。

もしアビラテロンが効かない場合、アメリカだと次はカバジタキセル、それもだめだと再度ドセタキセルというコースが考えられるらしい。今ネットで、カバジタキセルを調べても、治験がどうなっているのか、良く分からない。もしご存知の方がいらしたら教えて下さい。

山下公園前の大通りの銀杏並木に、銀杏がたわわに実っていました。余りにも凄い数なので、驚きました。掃除が大変だ。。







2012年10月2日火曜日

藤野邦夫訳の「ガンに打ち勝つ患者学」を読む

1999年の本で、古い。著者もアメリカ人でどんな人かは良く分からないが、有名な帯津先生が序を書いていること、例の藤野さんが訳していることから、読んでみた。

原題は、「がんになったらやるべき50の項目」(Cancer: 50 Essential Things to Do)で、邦訳とまるで違う。これをやればガンに勝てるかのようなことが表紙に書かれている(末期ガンから生還した1万5000人の経験に学ぶ、とある)が、内容そのものは常識的で、どこにも、この50をやったらガンに勝てるとは必ずしも書いてはなかった。若干商業主義の臭いのする本。

私の興味は、主に食事に関してだが、それほど突飛なことは書かれていない。例えば、

21段階: 健康な体重を維持しよう。タンパク質、特に低脂肪のものを重点的にとろう。新鮮な食品を食べよう。
22段階: 新鮮な野菜と果物、全粒粉のパン、パスタ、豆類をとろう。赤みの肉を避け、鶏肉も制限しよう。低脂肪か無脂肪の乳製品を使おう。脂肪と砂糖は抑えよう。食べたものは記録し、改善しよう。
23段階: 水を飲もう。ガン患者には脱水症状になる傾向があり、免疫機能が阻害されるので、大量の水を飲もう。
24段階: 体に悪いものをとらない。高脂肪のスナック、TVを見ながらの食事、早食い、衝動的な食欲に基づく食事はやめよう。
25段階: ビタミン、ミネラル、ハーブのサプリメントをとろう。

など、どれも当たり前と思えることばかりだった。

面白かったのは、後半の精神に関係する部分。

37段階: 病気のメッセージを理解しよう。病気になる1~2年前に、ストレスの多い出来事か変化がなかったか。深い悲しみやストレスをどう処理してきたのだろうか。気分を切り替える方法があっただろうか。有害な状況や関係を取り除けただろうか。
38段階: いまという貴重な瞬間を生きよう。過去を悔やんでばかりいるとせっかくの機会を見逃してしまう。過去のことを考えたり、後悔するのはやめよう。
39段階: 余裕をもって遊ぶ時間をつくろう。遊べばエネルギーを蓄積できる。そのエネルギーは健康に役立つ。
40段階: 治癒力を増強するため、笑おう。
41段階: まわりの人たちとの人間関係を改善しよう。どんな点を変えるべきか考えよう。
47段階: 許すことを習慣にしよう。受けた傷や過ちに関係した人を許そう。許すことは癒しになる。


ふむふむ。デーケン先生の本と共通することも多く書かれている。

こういう本は沢山出ている。昔は、がん患者の闘病記が役に立つように思ったが、末期がんを長く患っていると、がんは多く種類があり、それぞれに経験が大きく異なるのと、症状や治療法も異なるので、必ずしも参考にならないと気がついた。精神的なところについて書かれた本の方が今では役に立つような気がしている。
乳製品は悩ましい。すっぱりと止めたいが、ケーキには沢山使われているし。パンにも。お菓子にも。食べなければ良いんだが、無理だと思う。ヨーグルトは、木魚さんに教えて頂き、入れ物を煮沸消毒した容器で、豆乳カスピ海ヨーグルト作りに挑戦中。






2012年9月25日火曜日

「「がん」になってからの食事療法」を読む

少々古い(2001年)が、科学的な研究成果を前提に、癌治療と食事療法との関係を説いたものとして、外に適当な本はないと思う。

末期を含めた癌患者が何を食べたらよいか、食べるべきでないか、という悩ましい問題について述べた本。アメリカ対がん協会という、権威があるのかどうかは良く知らないけれど、アメリカでは有名らしい協会による本で、東北大の先生が訳され、解説をしている。

興味深いのは、アメリカの本らしく、前立腺癌についての独立した項目があること。それによれば、前立腺癌の患者のために、科学的に証明された食事療法はない。以下の食品のリストは、効果がある「可能性はあるが、まだ証明はされていない。」

①動物性食品の多量摂取は危険で科学的な根拠があると考えられる。飽和脂肪酸が少なく、果物や野菜が多い食事をし、定期的な運動をすることが大切。
②トマトに含まれるリコペンが前立腺癌の憎悪防止に効果的との疫学的な研究がある。但しこの学説は、一層の研究が必要。
③セレンが前立腺癌の発生率を低下させるという研究がある。但し、偶然そうなったのか、効果によるのかはまだ証明されていない。もし摂取するのなら、セレンを強化したビール酵母が良い。
④ビタミンEの摂取によって、前立腺癌は、潜在癌から進行癌に進展する可能性が下がるとの研究がある。但し、一層の研究が必要。
⑤大豆たんぱく質製品が良いとの考え方がある。但し研究での証明はまだない。
⑥カルシウム摂取が多い男性は、前立腺癌の発生のリスクが高いことを示す疫学研究がある。

ということで、ま、やっておいて損はないが、科学的な裏づけはないですよ、ということのようだ。

気になるのは、乳製品について言及が全くないこと。また、塩分についての言及もない。











2012年9月22日土曜日

藤野邦夫「ガンを恐れず」再読

ご自身も前立腺がんになり放射線治療を受けられ、がん難民という言葉を広めたことで知られる藤野さんの本。

昔読んで、今また読み直している。

この本で、特定の健康食品を堂々と勧めていたりするので、毀誉褒貶があるようだが、とはいえ、なかなか立派な本で、一読の価値があると思う。

藤野氏は、アメリカの文献等と自分の経験から、がん治療とは、がんと闘う主役は自分の免疫システムであること、だから無自覚に医師の治療を受けるのではだめで、自分の病状を正確に理解し、最適な治療法を自ら探し、求めるべきで、また不安ではなく、希望をもって暮らすことが大切だと説いている。

特に、セカンドオピニオンや、医師、看護士への積極的な質問、会話などを利用しながら、最適な治療法を患者側が主体的・自覚的に判断しなければならない、と再三再四力説している。自分の命に関わることなので、他人任せではだめだ、ということなんだろうと思う。

但し、それがいかに困難なことかは、嫌と言うほど体験した。だからこと、本書を読み返す意味があるということかもしれない。

私は海外の学校で教育の一部を受けたためか、日本社会では浮いてしまいがちで、主張が強い、生意気だと言われ続けてきたが(海外では、逆に主体性がなく、何を考えているのか分からないなどとと言われていたのだが)、それでも実際にがんになり、病院で自分の病状や治療法について、医師と会話するのは、とっても勇気と気力と体力が要ることで、先方に全くその経験や意思のない医師が少なからずいるために、そんなには簡単ではないと思った。医師にもよると思うけれど、質問されることを嫌がる先生が実際にいたので(前の主治医などその典型かもしれない。若い先生だけどね)。


2012年9月19日水曜日

デーケンの「死とどう向き合うか」を読む

上智大の先生だった、アルフォンス・デーケンの「死とどう向き合うか」を図書館で借りて読んでいる。結構ためになる。

死に関しての教科書のような、網羅的な本なので、一杯いろいろなことが書いてあったけれど、私にとってためになったのは、死に直面した誰もが経験する、心の移り変わり(過程)についての部分と、死への恐怖をどうやって克服すべきか、また恐怖は克服でき、幸せな死を迎えることもできるという部分だった。

本書によれば、末期の患者の心の揺れ動きには、共通の死への過程(プロセス)があり、5段階か、6段階に分けられるとのこと。

①「否認」 殆どの末期患者は、告げられた事実(例えば、余命三ヶ月)を否定する。自分が死ななければならないという事実が認められない。

②「怒り」 何故自分が死ななければならないのかという怒りを周囲にぶつける段階。医師は患者とのコミュニケーションが持てない。

③「人生の見直しと再評価」 人間関係のトラブルを解決しておく時期。苦しい治療を受け入れ、延命を望む時期。この時期は短いが、理性的になり、周囲に対し開放的、協調的になる。

④「抑うつ」 死が近づくと、抑うつが現れる。周囲はもう何もできなくなる。

⑤「受容」 避けがたい死をという運命を平静に受け入れる。

⑥「期待と希望」 死後、愛する人との再会を期待する。死後の世界を信じる人の場合に多い。

私について、振り返ると、まだ否認と怒りの段階なんだろうか。まだ半ば引きこもっているので、③の段階にあるとは思いにくい。面会は断っているし。人によっては、積極的に自分の末期がんの経験を講演会や患者会などで話し、他のがん患者を勇気づける活動をする人もいるようだ。まさに③の段階にある人なんだろうが、私はそうなることはなさそうな気がする。

また、本書によると、全ての人が⑤、⑥の段階に進むとは言えず、稀には最期まで自分の死を否定したままで死んでいく人もいるという。著者によれば、⑤、⑥にまで進めた人の方が幸せな死を迎えているという。そして、死生観、宗教、死への準備によって、死に臨む態度は違ってくる、という。

確かに、最期まで、自分は不幸だったと喚きながら死ぬのか(私の母が残念ながらそうなりそうな気がしてならない)、周囲に私は幸福だったと言って死ぬのかでは、死に方として大きな差があるだろうと思う。本人にとってだけでなく、残されたものにとっては、その差は大きいだろう。

更に、本書によれば、幸せな死を迎えるには、患者は死への恐怖を乗り越えなければならない。著者によると、死への恐怖には幾つかのタイプがあるという。

①「苦痛への恐怖」 がん死は痛い。がんによる痛みに苛まれて死ぬのが如何に辛いものかは、既に入り口を経験してしまった。

②「孤独への恐怖」 病院や家で孤独な死を迎える恐怖は強い。見捨てられている、と感じる場合、こうした恐怖感が強まるような気がする。

③「家族への負担になることへの恐怖」 既に入院、通院などの治療で物理的、経済的、心理的に家族には大きな負担になっている訳だが、終末医療の介護や看護が負担になると思う気持ちが恐怖になるという。患者が働き盛りの男ならば、残された家族の経済的、心理的負担に対する恐怖も一層強いだろう。

④「未知なるものを前にしての不安」 死ぬ経験は誰もしたことがないので、教えてくれる人がいない。ただし、この不安は先の「死の過程」を理解し、死への準備をすることで、大きく緩和される。

⑤「人生を不完全なまま終えることへの不安」 私のような家族がいないものは、将来弔う人がいない。特にライフワークはないけれど、中途半端な人生だったような気がしてならない。幸せな死を迎えるには、本書によれば、自分の人生が不完全ではなく、肯定的なものだったと捉えることができるようになる必要があるらしく、結構重要らしい。

⑥「自己の消滅への不安」 これは動物的、本能的な不安感なんだろうと思う。

私に関しては、苦痛への恐怖はとても大きい。また、私の死が引き起こす家族、友人への負担感、喪失感(家をどう整理するのだろう、家財の処分はどうするのだろう、墓はどうするのだろう、私がいないという心理的な穴はどう埋めるのだろう、などなど)に対する恐怖がある。動物的な死への不安感も強い。人生が不完全なまま終えることに関しては、独身で中途半端に生きてきたし、家庭人としても、社会人としても成功しないまま病気になったので、それはそれで受け入れざるを得ないという諦めの気持ちがあるけれど、素晴しい人生だったなどと、無理やり肯定的に受け入れるのは無理のように思う。  



2012年9月11日火曜日

同病の方とお会いする

このブログにコメントしてくださる方が、私の家の近所ということが判明したため、情報交換がてら、駅前の喫茶店でお目にかかった。私は、ほぼ引きこもり生活なので、同病の方とお話を出来るのは嬉しい限り。

びっくりしたのは、家がご近所だったこと。私の家の窓から良く見える。全くの目と鼻の先。

湯治がお好きのようだったので、近所の日帰り温泉の情報交換をさせて頂く。
 
家の窓からは、最近出来たばかりの総合病院、大山、丹沢、その後ろにちょっとだけ富士山が見える。大山には、いつか登って見たい。確か、ケーブルカーで頂上付近まで行けた筈。階段もやっと登っているのに、山は無理だろうか。その裏の丹沢は無理。富士は18歳の時に登ったので、それで十分。


昔良く通った、栃尾又温泉の囲炉裏。


2012年9月10日月曜日

闘病三年目

末期がんと告知された頃、時々「やりたいことがあれば、何でもやったら」と言われた。でも、何をしてよいか分からなかった。「欲しいものは?」と聞かれると、答えはしなかったが、「一日でも長く生きたい」と心の中では思っていた。だから、過去2年、特に新しいことは何もせず、またできず、欲しいものもなく、どちらかといえば、断捨離で、家の中の不要なもの(スキー、スケート、テニス、スカッシュ、バドミントン、登山、カヌーなどのスポーツ用品、テントなどキャンプ道具、旅行道具、キャリアーなどの自動車用品、出勤用のスーツ、コート、シャツ、靴、鞄、本など)を捨て、整理整頓に励んだ。

一度死にたくなるような痛みの日々に直面してみて、今は治験の薬が効いて、痛みから漸く回復し、散歩も可能となり、外出も出来、正座も出来るようになり、笑うことも出来るようになってみると、多少やりたいことが出来てきた。

習い事がしたい。本当に出来るとは思えないし、いつ再び座れなくなるかも分からないので、長続きはしないだろうが、お茶か、謡を習いたい。どっちも体を使う(正座する)ので、骨の痛みが出れば無理なのだけれど。

お茶は、一度も習ったことがない。私の世代で、男で、お茶を習う人は少ないと思うけれど、習っておけば良かった。私の父母の世代や、姉は習ったらしいので、少々残念。今更、あんなこみいった所作を覚えるのは無理かもしれない。記憶力が驚異的に衰えているし。かなりぼけて来ている。でも、お茶席で、全く作法を知らないのも、格好悪いように思う。(お茶席に行く機会は全くないのだが。)

謡は、能にはまっているため。40歳くらいまで、日本の古典芸能は全く好きでなかった。興味も無かった。文楽だけは、何故か子供の頃から好きだったが、40代になり、ある時から、歌舞伎を時々見るようになり(文楽と歌舞伎は台本が同じものが多い)、歌舞伎から落語(落語には歌舞伎を題材にしたものが多いので、歌舞伎を見ていると、落語も良く分かることが多い)、落語から能が好きになった。落語にも歌舞伎にも、能が元になっているものが多い(歌舞伎の方が多く、落語はそれほどではないが、例えば船弁慶)ので、能を見ていて、これはあの落語の元になっているな、などと思うことも時々ある。

焼き物が好きなので、茶碗経由でお茶にも興味を持ち出したという事情もあるかもしれない。和服も着るようになり、45くらいからは、見るものは古典芸能一本槍になった。昔は能や、落語がTVラジオから流れると、直ぐ局を変えてものだけれど、何ていう変わりようだろうと思う。今ではFMの能を聞いて、これは何の曲か、直ぐに言えるようにまでなってしまった。若い頃から、古典芸能やお茶やお花や、日本文化に親しんでおけば良かったな。お金と時間が掛かるので、無理だったかもしれないけれど。

とはいえ、また痛みが出たり、薬が効かなくなったりすれば、それどころでなくなり、集中力もなくなり、考えることも出来なくなり、顔から表情がなくなり、気持ちもぼんやりしてしまうかもしれない。短い間に出来ることは何だろうか。

父親作の茶碗で一服。作法はまるでなし。


2012年8月31日金曜日

発症、告知から丸2年目

8月末で、発症してから2年目になる。古い統計によるD2患者の余命は、中央値が3年程度だったと思うので、まだまだそこまでも達していない。私のように、50代で発病し、低分化でグリソンスコアが高い(9)と、早めに死ぬ傾向がある。同じD2でも、高齢で発病した場合には、高分化で、グリソンスコアも低く、ホルモン療法も良く効く傾向にあると思うが、そういう人も同じ統計の中に入ってくるので、2年生きられただけでも幸いだったかもしれない。

とはいえ、気になる記事が「がんサポート」の最新号(泌尿器のがん特集号)に載っていた。阪大の泌尿器科の先生の記事で、やはりホルモン療法が長期に効く人ほど抗がん剤(ドセタキセル)も長く効くとのこと。ホルモン療法がもし短期間しか効かない場合には、ドセタキセルも短いということなんだそうだ。恐らく多くの医師の観察するところなのだろう。

またエストラサイトを投与されると、ドセタキセルが効かない傾向にあるという。私がまさにその例なのだけれど。阪大病院ではエストラサイトの投与には慎重になっているらしい。

多くの新薬が承認待ちなので、D2患者は、薬の効き目を出来るだけ引き伸ばして、新薬登場を待つのが良いとのこと。その通りだと思うけれど、でも、待てない人はどうするのだろう?との疑問も湧く。今のように、新しい薬が欧米で開発され、日本ではラグで承認待ちという時には、どこの病院に受診しているかどうか(最新の情報量が豊富で、臨床経験も多い病院か、そうでないか)で、生存率が変わってくる可能性があると思う。

この記事で一番驚いた部分は、阪大では、がんの再燃(手術やホルモン療法でがんを抑えたものの、腫瘍が再び悪化した場合)の定義を、一般的な、PSAが二回連続で上昇したら、というものではなく、2上昇した場合としていること。この数値が大きいので少々びっくりしたが、要は、ドセタキセルに至る治療の時間を急がないということらしい。同様の方針をHPで見る限り、医科歯科大も取っているようだが、私の前の主治医は、ドセタキセルは早期が良いとの方針だった。

とはいえ、皆が皆、京大病院や阪大病院、千葉大病院や横浜市大病院に入れる筈もなく、運不運がつきまとうのかもしれない。

食べられるらしいやまぼうしの実。本当かな。



2012年8月28日火曜日

年金事務所に行く

以前、このブログで、匿名の方に、末期がん患者で働けない場合には、厚生障害年金の3級に認定される可能性があると教えて頂いたので、図書館で本を借りて勉強してみたら、その通りだった。国民障害年金は要件が厳しく、2級以上でないと受給の対象とならないが、厚生障害年金は3級まであって、3級には末期がんで働けない場合も認定される可能性がある、と書いてあった。

7月上旬に、痛み、麻痺で殆ど歩くのが困難だったけれど、ネットで調べて、家の近くの年金事務所まで、とぼとぼと歩いて出向き、手続きについて聞いたところ、受給対象になるかどうかの判断は申請後医師が行うこと、却下される場合も多いこと(人工肛門など、明らかに働けない場合には対象になるが、末期がんというだけでは個別の判断となるらしい)、申請から結論が出るまで3ヶ月かかること、却下の場合には異議申し立ても手続き上可能であること、など色々親切に教えてもらった。

年金事務所は、数年前父親の相続の際にとても不親切だったのと、年金を調べに事務所まで出かけた人たちに聞いた評判があまりにも悪いのとで、恐らくは不愉快な一日になることを覚悟して行ったのだけれど、たまたまなのか、行った事務所は空いていて、対応者もとても親切だった。

一番肝心な書類は、主治医の診断書である。

主治医に、所定の申請書類に病状を書いてくれるように、7月中旬にお願いに行って、約3週間後、書類が自宅に送られて来た。開封して読んでみると、私の病状は、フルタイムで働くのに全く問題がないかのような診断書になっていた。「抗がん剤の目立った副作用なし」とある。6クール目までなら、自宅勤務なら、働けたかもしれない。1クール目から下痢が激しく、家の外で何度か失禁したこともあり、外出にはものすごく気を使っていたので、通勤できる状態ではなかった。また10クール目あたりから腰痛が出るようになり、歩行障害、麻痺もあった。客観的に見て、私の場合は、毎日混雑する通勤電車で1時間半かけて都心の事務所へ通い、フルタイムで働けたとは思えないのだが、診断書はそうなっていないので少々びっくりした。副作用は主治医も見ていたはずで、薬も出してもらい、検査も色々やった筈だけれど、医師と患者とで、感じ方がずいぶんと異なるものだと思う。

診断書の予後の欄に、「余命は数ヶ月」と書かれていたのには、一番びっくりした。使っている薬(ドセタキセル)が効いていないからなんだろうけれど、何だか釈然としない。

これを持って、年金事務所に申請に行ったのだが、書類は受理されなかった。全ての書類は揃っていたのだけれど、主治医の診断書に、一箇所だけ訂正印なしに数値を変えたところがあり、受理できないとのこと。重要なところではなく、どうでも良さそうな箇所だったが、絶対にだめとのこと。歩くのが少々辛い体だったけれど、再び主治医の病院へ行き、訂正印を頼む。診察開始の時間なのに、主治医はおろか、看護士もまだ出勤していないとのことで、窓口に提出をお願いをしてきたが、大丈夫かな。

却下確実な診断書を何度も主治医に頼むという、少々情けない事態。

さるすべりの並木道。



2012年8月25日土曜日

お詫び

匿名さん せっかくのコメントでしたが、誠に申し訳ありませんが、削除させていただきました。

私の投稿が、少々言い過ぎだったかもしれず、反省しております。

ご理解下さい。

2012年8月23日木曜日

アビラテロンの治験開始

ようやくアビラテロンの治験が始まった。

6月にタキソテールの治療を中止して、8月上旬のスクリーニングに備えた。スクリーニングの4週間前には全ての前立腺癌の治療を止めておく必要がある。全ての治療を中止してしまうと、当然ながら、癌が憎悪する。PSAも上昇する。PSAは8月上旬には、72まで上昇していた。もっと上がっているかと思ったけど、なんとか二桁どまりだった。

この間辛かったのが、大腿骨に転移した癌の憎悪が原因と思われる、神経の痛みと足の痛み、麻痺だった。(前の主治医の病院では、癌ではなくヘルニアが痛みの原因と診断されてしまったけれど。)

左大腿骨に癌が転移していたので、麻痺が出たり、痛むのは専ら左の腰と足だったのだけれど、6月以降は、尾骶骨のあたりが強く痛みだし、7月末には、一日中痛さでうなるほどの状態になってしまった。ネットで調べると丁度坐骨神経痛のような症状で、とにかく痛い。8月には、寝込む日が多くなり、病院でもらった痛み止めだけでは痛みが治まらなかったので、病院の許可を得て、市販の痛み止めも買って、なんとか我慢したけれど、そのうちに右大腿骨への転移が悪化したのか、右の腰や足も痛むようになり、歩くのに不自由する状況になった。

暑かったこともあり、地獄のような日々だったが、治験開始でようやく一安心というところ。

治験の説明書によれば、アビラテロンは、アンドロゲンと呼ばれる男性ホルモンの生成を阻害する薬で、精巣や副腎にあるアンドロゲンを合成するCYP17というタンパク質の働きを阻害することで、アンドロゲンの合成を阻害するとのこと。既にアメリカや欧州32カ国でドセタキセルを含む化学療法既治療の転移性去勢抵抗性前立腺癌の治療薬として承認されていて、ZYTIGAという商品名で販売されている。

え、そうだったの。何で日本だけ承認されていないの、と思う。イレッサ訴訟や幾多の薬害訴訟もあり、厚生労働省が新しい薬の承認には慎重になっている、法的に正しい手続きを踏んでいるという見方もあるかもしれないけれど、一方で、これで救われる、或いは延命できる命のあることも考えると、単なる官僚機構の権限行使を目的とした承認の遅延か、または医療費抑制のための意図的な遅延なんじゃないの、と疑いたくなる。

医療費抑制が目的ならば、保険適応外で使用だけ許可すれば、自由診療の病院で、治療できれば良いという考え方もあると思うのだが、日本では混合診療は禁止されているから、結局は使えないだろう。

前立腺癌は患者組織が弱いそうなので、他の癌のような、役所へ早期承認のための圧力をかける患者組織が不在なことも、遅延の一因なのだろうか。

ドセタキセルは効かなくなったので、この治験に参加できなければ、ドセタキセルのきつい副作用に耐えながら、あまり効かないと分かっている化学療法で体をぼろぼろにしつつ、緩慢に最期を迎えることになっただろう。その時期が延びたので、とっても有りがたい。あとはいつまでこの薬が効くかどうかだ。




2012年8月13日月曜日

不思議な経験

人は死ぬ直前、走馬灯のように人生の場面場面が脳裏に浮かぶ、という。もっとも、誰もそんな経験は出来ないので、都市伝説かもしれない。

私は、子供から高校あたりまでの記憶が殆どない。通った学校の名前は覚えているが、担任の先生の名前とか、同級生の名前など、まるで覚えていない。高校の同窓会には入っているので、会報は毎年もらっているが、読んでいて懐かしさを覚えたことがない。生まれた町への郷愁も全くない。記憶がないのは、初期のアルツハイマーなのか、なんだろう、と思っていたが、あるきっかけで、高校自体のことを次から次へと思い出すことになり、無理やり忘れようとしていたのかもしれないと思うに至った。

昨日、家の近所で開かれた音楽会へ出かけた。痛み止めを大量に飲んでいるため、何とか外出は出来るが、痛みは完全になくなった訳ではない。大腿骨に転移した癌が神経を圧迫しているのが痛みの原因と思われるため、足が麻痺しており、上手く歩けない。階段の登り降りが難行で、エレベーターを専ら使っている。エスカレーターは動く速度が歩く早さよりも早過ぎるため、怖い。ということで、家から5分のところにあるコンサート会場へ、20分以上かけてよろよろとぼとぼ歩いていった。

演奏会での曲目の一つ、ショスタコービッチの交響曲5番が始まると、唐突に頭がぐるぐると回転し出し、高校時代のいろいろなことが突如思い出されてきた。高校に音楽部を作ったこと、人が集まらず大失敗だったこと、学校が遠くて通学が大変だったこと、一部のクラスメートと仲たがいし口をきかなくなったこと、成績が下がり続けたこと、教室のストーブ(石炭ストーブだった)を囲んで暖を取っていたこと、高校では紛争があり大変だったこと、高崎まで毎月音楽会に通い、帰りが遅くなったことなど、ランダムに、曲とともに思い出されて来た。そういえば、この曲を聞くのは、高校以来だったような。

どうも高校時代の色々な記憶とこの曲が不可分の関係にあるらしく、聞くと反射的に様々なことが思い出されるようだ。思い出の引き出しの鍵が、この曲になっているらしい。

実は高校時代はあまりいい思い出はない。進学校で、男子校で、楽しい学校ではなかった。友達と最近会うことは殆どない。年賀状のやり取り程度。同級生の殆どは郷里の町に住んでいるから、偶然に出会う機会もあまりない。

何故か、封印していた思い出が、曲とともに開封されてしまったようだ。それこそ走馬灯のように、次から次へと思い出される。変な経験。演奏はとても良く、大成功の演奏会だったのだけれども、もうこの曲を聴きに出かけることはもう多分ないだろうな、と思った次第。

もしかして、中学校や小学校についても、何かの曲を聞くと、色々思い出せるのだろうか。思い出したくはないけれど。




2012年8月3日金曜日

激痛に悶える日々

新たな前立腺癌の薬の治験を受けるための条件として、全ての治療を1ヶ月前に止めるというのがある。このため、6月でドセタキセルは中止した。ステロイド剤のプレドニゾロン等の飲み薬も全て中止した。

主治医に、次回のドセタキセル投与中止を申し出ると、やっかいな患者がいなくなるので、喜んでいたような感じだったが、いつ治験を中止されるか分からないから(もしPSAが上昇すると、治験は中止になる)、治験薬が効かなくなったら再び標準治療のためにお世話になる可能製もあるので、よろしくお願いしますと言うと、主治医はとても困惑した様子だった。

新たな診断書の作成もついでに頼んだのだが、主治医が郵送してきた書類には、予後の欄に、「余命は数ヶ月」と書いてあった。少々ショック。いくらなんでも、数ヶ月はないだろう。彼にとってはドセタキセルが効かなくなった患者の余命としては、率直なところなんだろうか。だから、せっかく他所の病院で引き受けてくれたのだから、帰って来て欲しくないんだろうか。

全ての治療を中止すると、当然ながら癌が憎悪してくる。前立腺癌の憎悪の速度は遅いとはいえ、私の場合、大腿骨に転移した部分が憎悪しているので、ここが悪化すると、神経を圧迫して痛みを生じる可能性があった。

それが直接の原因かどうかはまだ分からないのだけれど、2週間前から、強い筋肉痛と、尾骶骨周りが強く痛み出した。尾骶骨周りの痛みは鈍く、連続していて、昼も夜もなく続き、特に夜は痛みで寝られない。痛みは段々と強くなり、一番ひどいときには、一日中、痛さに涙が出る程で、何も出来ず、考えることも出来ず、歩けず、買物も料理も出来ず、唯一出来ることと言えば、トイレに行くことくらい。TVでさえ、ぼんやりとしか見ていられない。本などを読むのも無理で、インフルエンザで高熱が出た際、うなされて何も出来ない、あの辛い状態に近い。

治験先に頼んで痛み止めを貰うが、あまり効かなかったので、許可を得て、痛み止めを処方よりも増量して飲んでいる。痛い、痛いと唸る日々が続く。あまりの事態に、家族と知人にSOSを出し、知人には買物と掃除をお願いし、料理も作ってもらった。家族には差し入れをお願いした。これで食料品を買いに出る必要がなくなったので一安心なのだが、痛みは中々収まらない。

これがづっと続くのならば、長生きはしたくないと思った。調べると、骨に転移した癌の痛みはそれはそれはすごいものらしく、病院のベッドのカーテンを患者が苦痛で引き裂いた程などと書いてある資料もある。まだそこまでの痛みではないと思うけれど、寝られない痛みが2週間も続くと、体力も落ち、気力もなくなる。考えることも出来なくなった。

ただ、痛みというのは、段々と慣れるのか、2週間たった今では、夜は多少寝られるようになり、外出も近所ならば歩けるようになった。

もし、治験が受けられないとなると、残された選択肢は、効かないのを承知で、ドセタキセルの投与を続ける(PSAは上昇し、いずれ骨のがんが痛みだすだろう)か、余命数ヶ月の標準治療は諦め、代替治療を受けるか、あるいは両方を同時に受けるか否か。治療を受ける、選択するには、体力がないと無理で、骨の痛みでほぼ寝たきりの状態では、考えることさえ、出来そうにない。

しかし、がんは痛い。緩和治療で痛みをとらないと、自分の治療の方針さえ、決められません。

2012年7月17日火曜日

タキソテール(ドセタキセル)の副作用

8月上旬に、新しい前立腺癌の薬の治験のスクリーニングを受けられることになった。色々な条件があり、例えば脳に転移があれば治験はだめなど、細かい規定があり、それに合致するかどうか、相当数の検査を受けなければならない。MRIも骨シンチも最近主治医の所で受けたばかりなのだけれども、それは流用できず、治験用に新たに受ける必要がある。

また、スクリーニングの1月前には、他の抗がん剤治療は全て止めていなければならないという条件があるため、ペプチドワクチンは一時中止、ドセタキセルは投与中止をお願いした。ステロイド剤もプレドニゾロンは急に止めると悪影響があるということなので、徐々に減らし止めることになった。一方、ゾメターは直接前立腺癌の治療に関係しないため、続けた方が良いのだそうだ。ややこしい。ドセタキセルは、前回の投与から、治験開始まで2ヶ月近く間があいてしまうので、無治療期間が出てくる。PSAは当然上昇するだろうが、治験薬のメリットの方が大きいと思ったので、気にしないことにした。

ドセタキセル投与から3週間たち、そろそろ副作用が終わる頃かと思って楽しみにしていた。ところが、副作用はひどくなる一方で、筋肉痛、歩行障害、手足の痺れが続いている。頭痛もある。しぶとい薬だ。効いてないのにさ。

がんサポートによると、ドセタキセルの副作用は、以下の3種類とのこと。

 もっとも一般的な副作用
・感染リスクの増加を伴う白血球の減少
・出血リスクの増加を伴う血小板の減少
・髪が薄くなるまたは抜ける
・足首や手のむくみ
・下痢
・食欲不振
・悪心・嘔吐
・発疹
・末梢神経の炎症またはダメージによる手足のしびれ及びうずき


それほど一般的でない副作用
・口や唇のただれ
・水分貯留による体重増加
・疲労
・筋肉痛
・間質性肺炎

まれな副作用
・深刻なアレルギー反応
・手足の赤み、腫れ及び痛み


クール毎の差、個人差が大きいので、あくまで私個人の経験ということになる。私の経験した、今も経験している副作用は以下のとおり。太字は私にとって、とっても深刻なもの。

白血球の減少→クール毎に見られた。ひどい感染症には今のところなっていない。
血小板の減少→徐々に影響が出て、内出血をしやすくなった。正座をすると、膝が内出血であざだらけ。肘を足につく(考える人のようなポーズ)と、足が内出血で赤くなる、など。
髪が抜ける→全身のあらゆる髪が抜けた。睫毛が抜けたため、目にゴミが入りやすく、毛穴がないため、油が溜まりやすい。
・手首や手のむくみ→それほどでない。

下痢→ひどい。投与後1~2週間続く。体重が5キロ程度落ちる、トイレから離れられない(外出できない)。
・食欲不振→経験していない。体重が落ちたら、その後沢山食べて戻している。
悪心・嘔吐→悪心はひどい。いつも気持ちが悪い。でも段々慣れた。嘔吐は、吐き気止めが効いているようだ。
・発疹→経験していない。
手足のしびれ及びうずき→歩行障害になるくらい痺れている。指先は細かい作業が出来ない。ボタンがはめられない。靴の紐を結べない、物を良く落とす、小銭を財布からだせない、スマホを上手く使えない、など。

・口や唇のただれ→経験していない。
・体重増加→経験していない。むしろ減少。
疲労→ひどい。いまもって階段を登れない。少し歩くと息切れがする。運動をした後は寝込む。50代後半だが、70代の感覚。
筋肉痛→徐々にひどくなった。このごろは、極度の疲労と筋肉痛が一緒にやって来て、一日二日寝込み、痛みで泣き喚きたくなる程に辛くて痛い。徐々に収まるが。
・肺炎→経験していない。

・アレルギー反応→経験していない。
・手足の腫れ及び痛み→痺れてはいるが、痛くはない。

がんサポートには書かれていないが、大変困った副作用としては、
爪が薄くなる、欠ける、剥がれる(冷却法で緩和された)
目や鼻や顔の脂分が固まる。目や顔ににきびが出来る、目脂で目が開かなくなる、目が目脂で炎症を起こす
味覚障害
・鼻の鼻腔の毛も抜けるため、鼻が炎症を起こしやすい、常に鼻水が出て止まらない
・咽喉の粘膜が再生されないため、咽喉が炎症を起こしやすい、咽喉が痛い
重い耳鳴り、難聴
指紋がなくなり、ものを落としやすくなる。

耳鳴りは初めての経験で、最初はびっくりした。今は慣れたが、当初は寝られなかった。


ご近所マンションの提供緑地に咲く、アガパンサス。ちょっとスカスカしている。


膝の青痣(内出血)









2012年7月12日木曜日

初診、治療開始から1年11ヶ月

なんだかんだで、初診、生検、治療開始から1年11ヶ月がたった。

文句ばっかり言っているけれど、初診ですぐに前立腺癌と見抜いてくれ、あっという間に治療を開始してくれた今の主治医には感謝している。あそこであの人に出会わなければ、どうなっていただろうか。病院に行ったきっかけは、ひどい腰痛で、整形外科ではヘルニアと診断されたし、確かに、きつい痛みは今もあるので、もしあの日に泌尿器科にも回らなければ、前立腺癌の発見と治療開始が大幅に遅れた可能性が高い。

久留米大は遠かったが、申し込んですぐに治療を受けることができ、費用と時間はとってもかかっているけれど、一応の効果もあった。化学療法、ドセタキセルは中々効いてくれずPSAは大幅に上昇してしまったものの、大腿骨以外への転移が無かったのは、ペプチドワクチンの効果なのだろうか。

もし8月から、某大学病院でアビラテロンの治験に参加できれば、その後の余命はともかくとして、精神的にはとっても良いことなので、とても有り難い。

病気と薬の効果には全く恵まれていないけれど、医者と治療に関しては、比較的恵まれてきたように思う。

当初は、どうして僕だけこんな目に会うのだろうか、と思ったし、ストレスが原因のひとつでもあるので、周囲を恨んだけれど、今では、ま、運命か、と諦めの気持ちになった。恨んでも、後悔しても、泣いても、愚痴をこぼしても、病気が良くなるものでもなし、治療に悪影響があるばかりで、何も良いことはない。ストレス・フリーで、笑って楽しく治療生活を送るのが一番と思う。

後悔があるとすれば、ホルモン療法のうちに、海外旅行をしておきたかった。今では体力的に絶対に無理。スポーツは散々やったので、あまり後悔はない。久留米にももっと早期に行くべきだった。

自宅療養をしているので、本を沢山読めるかと思ったが、具合が悪い時に本は読めなかった。勉強も無理。寝ているばかり。TVのお笑い番組か、教育TVあたりが適当。歩けないため、展覧会などは厳しい。行くと、ぐったりしてしまう。80代でなく、50代の体力が欲しい。

体が動かなくなったため、今まで興味があまりなかった体を使う古典芸能(能のこと)に興味が出てきた。身体に障害があると、できないものに興味が湧いてくるのだろうか。


熊本電鉄は、東急玉川線の緑の芋虫みたいな車両を今も使っていて、社内には東急百貨店の広告。熊本なので、東急はないんだが。。



2012年7月10日火曜日

冷却法の効果:爪の剥がれは改善

ドセタキセルは、長く使っていると、骨髄抑制と同じ効果で、つまり癌細胞を殺すだけでなく、どんどん成長する正常細胞も殺してしまう結果、粘膜や、毛や、爪を作る細胞までもが死んでしまうためか、副作用で爪が剥がれてくる。

爪が剥がれると、大変生活に影響する(こればっかりはなってみないとその不便さはわかりませんでした)ので、どうしていたら良いかと思っていたところ、アメリカには、ドセタキセルの投与中に、手足頭を冷やすがん患者向けのキットがあることを知り、アマゾンで買ってみた。しかし、使い勝手は悪かった。30分程度しか冷えない(投与には1時間はかかる)、重く持ち運びが大変である(歩くのが困難なことがあるので、重いものを持って病院に行くのは辛い)、値段が高い(手、足、頭の三点セットで300ドル)、販売店は何故か日本へは送ってくれない。

現在では、このキットに加えて、100円ショップで買った台所用ミトン、毛の靴下、毛の帽子等に、保冷剤を入れたものを使っている。効果は徐々に出つつあるけれど、期待したほどではなかった。しかし爪の剥がれは止まったので、一応効果はあったのだろうと思う。髪の毛は残念ながら生えてこないので、効果はなかったのかもしれない。指先の痺れはまだ残っている状態。



2012年6月29日金曜日

ドセタキセル16クール目

PSAの上昇で他臓器への転移が心配されたため、先日主治医に骨シンチを撮るように言われ、一日がかりで撮影した。その結果を聞くのと、ドセタキセルの投与のため、予約日に病院へ行ったところ、主治医が薬の手配を忘れていたようで、その日の投与はキャンセルになった。おかしな理由を並べていたが、単に忘れていたのだと思う。ドセタキセルは高いのと、有効期限があるので、病院では在庫は持たない方針なんだそうだ。だから翌日以降にならないと、そして薬屋が配達してくれないと投与できないらしい。もし地震が来たら、この病院では助からないかもしれないな、と思った。管理がいいかげんで、薬の在庫もない。閉鎖も噂されているし。

骨シンチの結果は、大腿骨へ転移した癌は憎悪しているが、心配されていた脊髄への転移はなく、他臓器への転移もなかったとのことで、脳への転移も見つからず、安心した。

その日は、ドセタキセルの投与が無くなったため、主治医から、整形外科へ回るように言われ、MRIを撮り、レントゲンを撮る。写真を見ての放射線医と整形外科医の共通の判断としては、私の腰痛、左足の一部麻痺(これが原因で歩行が困難になった)は、がんが原因ではなく、ヘルニアだとのこと。写真を見せてもらうが、脊髄が大きく歪んでいて、神経を圧迫していた。先日「試してガッテン」で見たような写真だった。

がんの発見も、そもそも、極度の腰痛で整形外科に駆け込み、ヘルニアと診断され、ついでに行った泌尿器科でがんが発見されたのだった。ホルモン療法開始で腰痛は止んだので、今回もほんまかいなとも思ったが、間違いないとのこと。整形外科としては、手術をしないと治らない可能性が高いが、ドセタキセルを止めないと手術はできないし、泌尿器科を手術は勧めないとの意見でもあり、当面は様子を見ましょうとのこと。ドセタキセルを止めたら、PSAがどこまで上がるか予想がつかない。QOLを考えると手術はしたいが、まだまだ長生きしたいし、できると思うのでリスクは取りたくない。

主治医からは、痛みの原因がヘルニアなので、放射線治療は不要と宣言される。確かに、原因が明確にヘルニアと診断された以上、主治医の紹介による治療は難しいだろう。少々がっかり。

翌日がドセタキセルの投与日となる。翌々日が主治医としては都合が良かったみたいだが、それだとPSAが上昇しかねない。心配だったので、翌日にしてもらう。薬屋の配達もOKだった。飲み薬が無くなったので、処方を頼んだが、主治医は、私が整形外科の診断を受けているうちに、不在となり、薬の処方を忘れていた。再度がっかり。

翌日、再度病院へ。PSAは41に上昇しており、ドセタキセルもオダインも効いていないことが(予想通りだが)判明。医師はもう手はないとの一点張りで、オダインがだめだから、エストラサイトに戻しましょう、と言う。確かに、最早標準治療で使える薬は残っていない。色々聞きたいことがあったが、話す気力もなくなり、また先方も薬についての知識があまり豊富でない様子でもあり、出直すことにした。

もし某大学病院の治験がだめだったら。代替治療か。他の治験も探さなくては。

知人から、お見舞いに佐藤錦を貰う。また別の人から、花を貰う。今まで一度もこういうことはなかったので、驚いた。相当悪いという噂になっているのだろうな。その通りなんだけどね。


2012年6月25日月曜日

ペプチドワクチンの2クール目終了

久留米大病院で受けているペプチドワクチンは、1クールが8セット(4種類のワクチンをまとめて注射するのが1セット)、2クールも8回注射することになっている。途中で止めるのは自由。

今回2クールの最後まで受けるかどうか、少々悩んだ。前回の投与後、腰痛で歩けなくなった。おそらく原因は、大腿骨に転移している癌の憎悪だろうが、憎悪の要因として、PSAの上昇の他に、久留米までの往復で相当体力的に消耗することも考えられたので、今回は止めようかどうしようか、迷った。ところが直ぐに腰痛も治まったので、当面最後の投与になるかもしれないという思いもあり、出かけることにした。

久留米への往復は、今までは1泊2日の日程だったのを、疲れないように2泊3日に変更した。それでも結構疲れた。最近は、近所の散歩くらいでもかなり疲労感があるから、長時間飛行場までのバス、電車、福岡までの飛行機に座りっぱなしの行程は体に悪いのかもしれない。台風が日本を縦断中だったのも多少影響したかも。

久留米大病院では、ドセタキセルが効かなくなっていることから、積極的に治験に参加することを勧められた。精神的に参っていることを伝えると、先生から「それが普通で、誰でもそうなるものですよ」と慰められた。とはいえ、薬が効かないという事実には心が折れる。

ペプチドの投与は大学病院だから、TVの梅ちゃんせんせいのように、新人の先生がするのだけれど、今回は技術的に難があったのか、4本のうちの1本がまるで体内に入らず、投与直後から、血とともに噴出してしまった。注射をした後、絆創膏のようなものですぐに看護士が血止めをするのだけれど、なかなか止まらない。一応収まったので、会計に行こうとして歩いているうちにズボンが汚れ出した。どうしたんだろうと思い、洗面所で確認すると、血止めが剥がれ、血と白いワクチンが流れ出しており、ズボンが真っ赤になっていた。

慌てて戻り看護士に見てもらう。当然ながら、看護士は何も言わなかったけれど、ズボンの汚れをアルコールで落としてくれた。血まみれのズボンでは確かに不気味。某大学病院の不親切な看護士とはずいぶん違うな、と感心したものの、やはり医師によって注射の上手い下手はあるんだなと思った。

気が動転したため、台風対策で持っていた傘を病院に忘れたことを後で気付いたが、既に久留米駅まで戻っていたため、後の祭。雨に濡れる方が血まみれよりもマシかなと思うことにした。

帰りの福岡空港の展望室からの眺め。台風一過だが、曇り、雨。関東には来ていないピーチ機を写した積もりが、遠すぎた。昔あの展望室で、良く時間潰しをしたことを思いだす。


2012年6月14日木曜日

今日は骨シンチ検査

主治医がPSAの上昇を心配して、骨シンチ検査を再びやることになった。骨シンチは4月に受けたばかり。その時は、大腿骨への転移していた部分が憎悪していたが、他臓器への転移はなかった。もし今回の検査で、脳や、他の臓器への転移が見つかったら大変だ。とっても不安。

駅前の本屋で、アイソトープの注射と、骨シンチの検査の間の長い空き時間(5時間もある)を潰すために、放射線治療についての本を探していたら、流石に病院前の本屋、癌についての本が沢山ある。前立腺癌の本も結構あった。殆どは昔読んだ本だけれど、読んでいなかった読売新聞社の新刊を立ち読みしていたら、ドセタキセル無効になった場合の患者のことにも触れてあり、読まなければよかったかなと後悔した。その場合、緩和治療しか選択がないから、当然ながら、その患者は直ぐに死んでしまったか、がん死を前提に緩和治療に臨んだという記述になっていた。やはり、死を待つだけか。

とはいえ、ぼくは、まだまだ元気だし、歩けるし、食欲もあるし、ということで、くよくよ悩まないことにした。昼食には、健康に悪いフライ物を沢山食べ、いつもは食べないホットケーキに、バターとメープルシロップを沢山掛けてデザートにした。ゲルソン式は今日だけは忘れることにする。

結果は再来週のドセタキセルの投与時に分かると思うけれど、少々不安な毎日。でも楽観しようかと思っている。自分でコントロールできないことは悩むのは辞めた。

日野正平が出ている自転車番組を良く見ている。あのお年で、自転車であの距離を旅するなんて、すごいと思う。ぼくも病気でなければ自転車で東北一周をして見たかったな。昔、旅行で、気仙沼へは良く通ったから、陸前高田も、大船渡も、南三陸町も細かいところまで良く知っている。でも、もう行けないだろうな。だから、TVで、かつて旅した町が出てくるととても嬉しい。


2012年6月7日木曜日

ドセタキセル15クール目。腰痛で歩けない。

ドセタキセルも15クール目になった。あと2ヶ月で告知から2年。化学療法を始めてから1年になる。2年は生きていそうだが、3年、5年目はどうなるだろうか。

実は、直前の週末にひどい腰痛になった。理由は分からないが、ドセタキセルが効かなくなったことから、骨盤に転移した癌が進行しているのだろう。突然痛み出し、土曜と日曜は部屋の中さえ歩けず、トイレに行くのも壁伝いという有り様。リフォームの時、廊下に手摺をつけるかどうかで悩み、結局構造的な問題で諦めたのだが、やっておくべきだった。有ると無しでは全く異なる世界なので。バリアフリーにしたのだけは良かったけれど、手摺も必要だった。寝ていても痛いが、気力がないので、一日中寝て過した。

月曜になると、突然痛みが治まったのが不思議。歩くフォームはぎこちないけれど、ゆっくり歩けば痛みはなく、移動にも問題はない。

ドセタキセルの投与は水曜日。PSAは35に急増していた。痛みから、大幅な上昇を予想はしていたが、35とは。治療開始時に戻ってしまい、言葉も出ない。主治医も慌てていた。何故なら最早効く薬は残っていないのだ。後は、ドセタキセルと併用している飲み薬を変えるだけ。エストラサイトをカソデックスに前回変えたけれど、全く効いていない。それ故の大幅上昇なので、オダインに変えると言う。この薬は前回全く効かなかった。恐らく次回の検査時のPSAはいくつになるのだろうか。3年生存は危うくなりつつあるように思え、病院内を歩いていて、お先真っ暗で、めまいがしてきた。来年はもう此処には来れないのかもしれない。帰宅後の夜は、目が冴えて全く寝られなかった。覚悟を決めないといけないのだろうか。

治験にもし参加できなければ、来年で人生に幕となる可能性が増してきているようだ。

主治医に腰痛の件を話し、放射線による緩和治療の希望を話すと、どうぞと言う。今までは放射線については乗り気でなかったが、全く手がないのだから、彼も宗旨替えのようだ。とはいえ、どこも紹介してくれないので、自分で探すことになる。有明の専門医がネットでヒットしたので、後で研究してみよう。治験をお願いしている大学病院は、そもそも治験のみとの話なので、無理だろう。医者に会うだけで2ヶ月かかる病院である。近所の病院にも伝手はない。また治験の条件には、「放射線治療の経験がないこと」というのが結構あるようだ。7月には治験の医師と会うので聞いてみる機会はあるが、それまでに痛みが再発した場合、放射線治療を延期すべきか、開始していいものか、悩む。

とはいえ、PSAだけじゃない、と自ら言い聞かせる。PSAが高くても生きている人は大勢いる。転移がどうなるかだろう。脳へ転移すれば、PSAが低くても、生存は厳しい。

隣のマンションの公開緑地がとってもきれいだ。毎日庭師が入っている。それで管理費は特に高くないようなので、驚異。



2012年5月22日火曜日

歯の治療をする

ゾメターを使っていると歯科治療は全くできないのかと思っていた。定期的に通っている歯科大の病院で、メンテナンスのために見てもらったところ、右奥歯に小さな虫歯が出来ているとのこと。ゾメターを使っているので、治療で上顎壊死の可能性がある、と話すと、先方も当然了解しており、ごく小さいので、大丈夫とのこと。おっかなびっくりだったが、早いうちが良いだろうと覚悟を決め、治療してもらう。

削り出すと、先生、「あれ、結構奥深くまで入っている」との恐ろしいお告げ。しかし、痛みなく、神経にも触らず、大きな歯である奥歯だったが良かったのか(磨きにくい奥歯だから虫歯になったのでもあるけれど)、痛みなく、30分で治療終了。その後も何ともないので、大丈夫だったようだ。

奥深くまで達していたらどうなるのだろう。ゾメターを一時中断しないと治療できないのか、と尋ねると、「ゾメターは骨にくっつくので、薬が消えるわけではないから、止めてもだめだろう」とのこと。骨粗しょう症治療にも使われる薬なので、歯科医としてはゾメターについては慎重になるようだ。

他の副作用として、咽喉が痛み出した。風邪かと思ったが、熱は出ず、他の症状も出ないので、典型的な副作用が出たらしい。味雷細胞が壊れ、味覚障害の出ている舌と同様、咽喉の表面の細胞組織が破壊されていることから痛むのだろうか。それはばい菌やウィルスに感染しやすいということでもあるので、要注意だ。外出時は殆どマスクをしているが、大丈夫だろうか。

瞼が腫れたので、これまた眼科へ行くと、目の汗腺から出る油が固まって詰まって炎症を起こしているとのこと。「切開してうみを出すと直ぐ治るよ」と告げられたが、白血球も血小板も大幅に減っているし、自己治癒能力があまりないので、切開は断る。代わりに薬を出してもらう。ステロイド剤の塗る目薬を処方され、塗ると目の腫れ、赤みは直ぐに取れた。但し、この薬は長期使用禁止と書いてあった。危ない薬のようだ。プレドニゾロンと同じステロイド剤。


どうも体内の油が固まっているようで、顔にもにきびのような吹き出物が沢山出来る。眼科の先生のよれば、対策としては、「石鹸による目の回り、顔の洗顔」「蒸しタオルで暖め、油を流動化させる」などが有効だそうだ。

体中の毛が無くなったが、睫、眉毛、鼻毛など、ばい菌やゴミが体内へ入り込むのを防いでいるものがないから、目、鼻、咽喉が痛む。これに加えて白血球が大幅減少では、感染しやすいのも当然と思う。


2012年5月17日木曜日

ドセタキセル14クール目、PSAは大幅上昇。がっくりくる。

14クール目を迎えた。ある程度は効き目を見せてくれたドセタキセルも、等々という感じなのか、力尽きたのか、PSAは10を最低値としたまま、今回は22に上昇。発病時、ホルモン剤の開始時が30だったので、あと2クールもしたら、30を超えてしまうかもしれない。この何ともやり切れない状況に、困惑し、がっかりし、疲れた。悲しいと、いうのが本当の気持ちか。

以前、K大病院の先生が、あなたの症状ではドセタキセルが効いても半年程度だろう、と予言し、やはりそうなんだろうか、と思ったことがあったが、それよりは若干長かったが(ペプチドワクチンの効力もあるのかもしれない)、1年経たないのに、効かないことはほぼ確実になってきた。

これからは、可能ならば、治験薬をつないで、生き延び、それも無効になったら、ある程度ドセタキセルも休薬できれば体調も回復するので、再度ドセタキセルを使い、徐々に他の臓器へ転移し、緩和治療を受けながら死ぬまで、数年程度の時間を稼げるかもしれない。それでも、長くて何年かだろう。早ければ来年にはだめかもしれない。10年もドセタキセルで生きられたならば良いかな、という甘い期待は全く手に届かない願望ということになった。

主治医は、併用しているホルモン剤を、女性ホルモン剤のエストラサイトから、カソデックスに変えた。カソデックスは副作用は比較的少ない。エストラサイトのような女性化(乳房が膨らむなど)は無かった記憶がある。これもあまり効果があるとは思えないが、とにかく他に手は無いので、併用する薬をできるだけ変えて行きましょうとのこと。加えて、いつものゾラデックス(90日分)を注射した(この薬がとても高い)。

当日はがっくり落ち込んだが、今は何とか回復し、PSAだけじゃないし、まだまだ外出できる程度には体は動くし、副作用は別にしても、癌そのものは全く痛くもないし、と前向きに考えることにした。落ち込むのも早いが、回復も早くなった。副作用など、薬の効かないことに比べれば、全く大した問題ではないと実感。死が確実に近づいていることが一番の問題だ。

家の隣のマンションは周囲に公開の広い散歩道がある。庭師が常に入っていて、手入れが非常に良い。今年も石楠花が見事。花を見ていると、何故か元気になる。どうしてだろう。生命力のせいだろうか。できるだけ、花を見て過したい。




2012年5月14日月曜日

転院には失敗、何日か寝込むようになる

居住地の比較的近い病院に転院したいと思い、県内の某大学病院に、受診を申し込んでから1ヵ月以上過ぎた後に、漸く予約の日となり、予約時間の4時間後に担当医に会うことができた。大変混んでいた。いつも通りの混み方のようだった。

先方の先生から、当院は非常に混んでいるため、どこでも治療が可能な標準治療の患者の転院は受けていないこと、治験目的なら受けることもあり得るが、ドセタキセル無効の患者の治験は制限項目がかなり色々とあるため、対象となるかは別途確認しないと分からないとの答えだった。

後日主治医に転院を断られたことを告げるとともに、治験についての先方の真意について聞いてみたところ、治験については可能性はありそうなので、もし受けられるのであれば受けた方が良い、治験の対象になるかどうかは後日通知があると言っているので、それを待った方が良いとのこと。

転院が出来ないとなると、緩和治療目的の放射線照射は将来どこか別の病院を探さないといけない。また治験は同時に二つは受けられないため、久留米大のペプチドワクチン治療は即時中止しないといけない。治験の新薬も恐らくはいつまでも効く訳ではない。あくまでも延命効果が認められているというだけなので、いずれは効かなくなる。投与が打ち切られた後の治療はどうなるのか、不安が残る。

もし新薬の治験が駄目だとすると、ドセタキセルを引き続き続けることになる。副作用はどんどん悪化しており、薬も効かなくなり(とはいえ、ドセタキセルを完全に止めてしまうとPSAはあっという間に急上昇するだろうとのこと)、期待余命はかなり短くなりそうだ。

今回のクールでは運動は全くしていない。散歩程度、30分程度を数回した程度だが、散歩の翌日に寝込んでしまった。疲労感から動けない。歩けない。ずっと寝ていたら、何とか回復したが、投薬後2週間は安静にしていないといけないようだ。

久留米大病院で、PSAの上昇が不安であること、ドセタキセルの副作用がどんどんきつくなっていること、主治医からドセタキセル無効後の治験を勧められていること等を話したら、ペプチドワクチンの効果とPSAの相関性は必ずしもないのだそうで、ペプチドワクチンの効果が確認できていれば、延命効果はある程度あることが確認されているので、PSAの増減にあまり過度に悩むべきではない、との説明を受けた。一安心したが、「とはいえ、泌尿器科医としての立場からは、PSAも無視できないけれど」とのこと。

今後新薬の治験がもし可能だとなった場合には、どういう治療方針で行くのかを決めなければ行けない状況になりそうだ。自分の命に関わることだから、自分で決め、後で後悔しないようにしたい。

体調の悪化は心にも影響する。余命があとどのくらいなのだろうか、随分と思い悩んでしまった。

区役所通りのマロニエ(栃の木)が今年も満開になったが、通行人は誰も気にしていない様子。来年もまた見られると良いな。


2012年4月26日木曜日

ドセタキセル13クール(発症、告知から1年9ヶ月)

ようやくドセタキセルが14クール目になった。

月刊誌がんサポートの2009年2月号の千葉大の鈴木医師監修の記事によると、タキソテール(ドセタキセル)が効く人と効かない人が分かりつつあり、PSA値が30パーセント以上下がった人は2年以上延命するが、下がらなかった人は効かないので別の治療を検討する、とある。私の場合は、投与前のPSA16が投与後10台まで下がったから、3割下がったけれど、その後上昇してしまい、今回は17と投与前よりも上昇してしまった。他の治療法を考える時期なのだろうか。とはいえ、今は死ぬまではドセタキセルと言われているのだけれど。他に治療法とは、まだ開発されていない筈なのだ。

主治医は、併用している薬物、エストラサイトを他の女性ホルモンに変えるしか残された手はないだろうと言う。だが、千葉大では併用はしていないらしい。2年以上延命する組に是非とも入りたいのだけれど、どうすれば良いのだろう。

通っている病院が閉鎖を噂されている、主治医も他の病院へ移る予定などのこともあり、5月からようやく近所のある大学病院へ移る準備が整った。但し、とても混んでいる病院であった。どんな治療方針なのか、申し込んでから1月後にならないと初診にまでも辿り着かないという超混雑病院なので、まだ担当医にも会えていない。どうなるやら。

なんだか先行きが真っ暗になってしまった。まだ3年生存率30%の壁さえクリアできていない。今年の夏あたりが正念場なんだろうか。

できることと言ったら、新たな治験を探すくらい。後は骨折しないこと、歯を悪くしないこと、適度な運動をすること(適度をどう判断するかが難しいけれど)、ストレスを貯めないこと。過度に悩まないこと。そういう付き合いをしないこと。

爪がはがれるのを防止するキットをアメリカのアマゾンで購入し、米国の友人宅へ送ってもらい、転送してもらったものを初めて使ったが、失敗だった。家を出るのが、大体9時。キットは冷凍庫で長く冷やしていたのだけれども、病院は電車で1時間以上かかり、更にPSAのための血液検査を午前中受け、午後2時頃からようやく投薬開始なので、キットを使うのは5時間後になる。100円ショップで買った保冷剤は5時間後も凍ったままだったが、キットは5時間も持たないことが判明。使い始めた頃にはもう冷たくなかった。ピクニック用の保冷庫を持っていく必要があるかもしれない。夏になれば、持ちはもっと悪くなるだろうし。

写真は久留米の石橋文化センター。石橋家(というか、ブリジストン社)が久留米市に寄付した公園と文化施設群がある。

石橋美術館のコレクションは市の持ち物ではなく、石橋財団が持っているらしく、東京のブリジストン美術館と共通らしい。今月は東京から持ってきた絵と、久留米の絵を並べる展示をしていた。今東京には久留米の宝である青木繁の絵が来ているようだ。

最近は、先行きのこともあるので、家族には頻繁に会うようにしている。母親にも、会話は進まないが、進んで会いにいくようにしている。友達とも会っておいた方が心残りがなくて良いのかもしれない。



2012年4月13日金曜日

ドセタキセル12クール目、PSAは上昇

ドセタキセル12クールの副作用は今までで一番きつかった。13クール目はどうなんだろうと思う。以前聞いた話では、一般に8、9クールあたりが一番きつく感じるとのことだったのだが。

投与後、7日目に、比較的元気だったので、軽い運動をした(水泳をした)のが間違いだったように思う。副作用を甘く見ていた。プールへ行き、いつものプログラムだと疲労するのが分かっていたので、半分程度のプログラムにして、ゆっくりと泳いだのだが、戻ると体がだるい。その日の夜は食事もできたが、翌日、翌々日は食事もできず、起きられない。頭も痛く(転移かとびくびくした)、熱もあり、だるく、歩けない。結局二日間寝っぱなしとなった。一人暮らしなので、助けもいない。流石に死ぬことまではないだろう、そのうち治るだろうと思ったので、家族を呼ぶことはしなかったが、一歩手前という感じだった。

3日後にようやく回復し、食事も歩くことも可能になった。10日目になっても体力は普段並みとは言えない。回復がとても遅い感じ。

原因は何だったんだろう。体力が70歳並みとは思っていたけれど、軽い運動で、あれほど疲れるとは。肝臓に問題はない。リンパ腺かな。

投与時のPSAは、15台に上昇していた。投与開始時とほぼ同じ。結局、ドセタキセルはそろそろ無効ということなんだろうか。とはいえ、死ぬまで止めることはできない。緩やかな上昇にとどまることを期待するのみ。




2012年3月29日木曜日

福岡で桜を見る

久留米大病院に通うために、羽田でなく、成田から飛行機で福岡へ通うようになった。理由は、交通費の節約のため。JRで往復すると、久留米まで川崎から交通費だけで4万5千円程度かかる。成田経由福岡だと、大手航空会社の半額、往復2万円程度、場合によってはもっと安くなる。飛行場までの時間は結構かかるが、飛行場が空いている、機内も空いているので、意外に快適。ほぼ失業状態なので、交通費はできるだけ節約したい。羽田発でも、日によっては安い会社もあるけれど、選択幅は小さい。福岡でなく、熊本や長崎へ飛んで久留米に行く手もあるが、福岡空港がやはり便利だ。ピーチが成田にも来ないかな。

成田は出張、旅行で数え切れない程利用したのに、飛行場についての記憶はあまりない。私の父母は、父が死ぬ前の年まで、ほぼ毎年二人で2週間程度海外旅行に出かけていた。当時私は空港近くに住んでいたので、その際には、見送りか、出迎えに必ず行っていた。成田空港に行くと、その時のことばかりを何故か、思い出す。母親が私が里帰りをすることを好まなかったこと、私も里帰りは嫌だった(家がゴミ屋敷だった)ので、家から近い成田で彼らに会うのは都合が良かった。私の父母の世代は、戦争で青春はなく、空襲あり、食料難で、貧しく、農地解放で財産も全くなくすなど、大変なことばかりを経験したようだが、高度成長の時代ゆえ、田舎に大きな自宅を建て、子供二人を大学に出すだけの余裕があった。おそらく彼らの同世代は皆同じような生活が出来たのだろうと思う。年金も手厚く、子供に相続させるだけの財産も作ることが出来たし、毎年海外旅行に行けたなど、これからの老人にはほぼ不可能と思える豊かな生活を送っていたように思える。私の世代が年金を貰う頃、ほんの数年後だけれど、貧しくなるばかりの日本経済はどうなっているだろうか。年金も父母の半分さえ貰えるかどうか怪しい。私は既に半失業状態。医療費もかかるから、海外旅行どころでもない。ま、体力もないので、あっても行けないだろうが。私は早く死んでしまうだろうから、大地震が来ようと、日本経済が没落しようと、あまり悩まなくて済むので、少々気楽なのだけれど。

ペプチドワクチンは副作用は殆どないが、脚の付け根に打ち続けるため、その部分が硬化してくる。だから注射時はとても痛い。また筋肉痛のような痛みが時々出ることがある。とはいえ、癌による腰痛に比べれば、何でもない。

今回は久留米へ行く前に、福岡城(舞鶴公園)へ行き、桜を拝見。ソメイヨシノは全く咲いていなかったが、一本だけエドヒガンと思われる桜が咲いていた。いつも訪れるたびに、コンパクトで、気候が良く、食べ物がおいしく、自然に溢れ、文化的で都会的で、物価の安い福岡は良い町だなと思う。福岡の人が羨ましい限り。



2012年3月21日水曜日

ドセタキセル11クール目(治療開始から1年8ヶ月)

11クールめで、PSAは13.9に上昇。微増だったので、誤差の範囲か。ドセタキセルと併用している薬(エストラサイト)について、主治医はもしPSAが上昇したら、他のものに変更すると言っていたが、今回は見送り、再度エストラサイトを続けることになった。

また、4月以降、家の近くの病院に移りたいと申し出たところ、大歓迎のようで、それなら早速MRと骨シンチも撮ってから、4月下旬に移って下さいとのことで、検査をすることになった。

病院を替わる理由としては、①今の病院は経営状態が悪化していて、患者数が少ないだけが取り得になっており、いつ閉鎖されるか分からないこと、②放射線科や緩和治療の設備がないため、骨に痛みが出たときの対策が取れないこと(結局他の病院に移るか、他の病院を紹介してもらわないと出来ない)、③家から遠いこと、の三つなのだけれど、主治医からは特に理由も聞かれなかった。

エストラサイトの点滴時には、冷却法で手と足とを冷やしたが、爪の悪化傾向は止まらなかった。効かないか。あるいは100円ショップで買った材料に問題があったのか。

アマゾンで売っている冷却手袋、ソックスは日本へは送付してくれないので、米国在住の知人に頼み、米国で受け取ってもらい、転送してもらうことになった。早く着かないかな。学会報告では効く例が多いとされているけれど、実践してみないことには分からない。300ドルもしたけれど、もし爪が守られるならば、安い買物かもしれない。

移る先の病院は、大学病院で、混んでいた。あまりの混雑にうんざりだけれど、医師数が多く、前立腺癌の専門医もいるので、期待しているが、どうなるか。がっかりという可能性もある。

ドセタキセル投与後、4日目に、近所の温泉施設に行き、温い湯に1時間半程度浸かったら、湯疲れが出て、寝込んでしまった。体力がないので、温泉は危険なのかもしれない。以前はその程度の時間浸かっていても、湯温は38度程度で体力を消耗することはなかったのだが、どうも湯が強いのと体力が70代並みなのとが相まって、気分が悪くなった、湯あたりとなったようだ。

治療の一環で、湯治にでも行こうかとのんびり考えていたが、投与の後1週間以内は無理ということが分かった。運動も出来ないし、外出もままならないから、湯治なら大丈夫かなと漠然と思っていたが、そんなに甘くないようだ。


2012年2月28日火曜日

医療費は結構な負担でした

癌になって驚いたことのひとつは、薬が高額なこと。とっても高い。去年の医療費控除を計算したら、保険診療の自己負担部分だけで、100万円近い。3割負担で100万円だから、実際に掛かった医療費は330万円強にもなる。これに、全額自己負担のペプチド・ワクチン代と交通費が追加でかかっている。今は何とか収入があるから良いけれど、長生きすると、大変だ。年金生活だと恐らくは暮らして行けないだろう。いつから貰えるかも分からないし。68歳まで支給開始時期が引き延ばされるように改悪されると、本当に大変だ。退職金もどうなることやら。

生活設計なんて、生きているかどうか分からないから意味ないのだが、病気であるってことは経済的に大変だなと実感している。

医療費控除で戻ってくる税金は払った額の1割程度なので、少々がっかりだった。ま、そんなものかな。


会社は病欠

去年の8月に入院し、抗がん剤治療を始めたが、普通休暇を消化し、その他の休暇も全て使いきったので、今は病気療養での長期休暇扱いになっている。会社から出て来れるか、確認を受けたが、副作用のため、恐らく在宅勤務なら可能と答えたが、それは無理とのこと。来年度で管理職扱いを外れ、一般職社員に降格の上、病気休暇扱いしてくれることになった。但し、60歳まで。その後の再就職は断られた。働けないので、当然なのだが、もし生きていれば収入ゼロになる。

今後は病気の長期休暇なので、給与は出なくなるが、健康保険からの補填が貰える予定。貰える額は恐らく管理職時代の半分以下になるけれど、辞めても、退職金が増えることはないので、悩んだが、60歳までお世話になることにした。その間、制度が見直しになり、会社の状況は実質倒産に近いので辞めろといわれる可能性もあるけれど、様子を見ることにした。

通院している病院も、主治医が替わることもあり、家の近所の病院に移ることを検討中。脳外科、放射線科が今の病院にはないので、いずれはどこかへ移らないと行けないと思っていたので、潮時と思うが、PSAが上昇し、ドセタキセルと併用している薬を変えることを検討しましょうと言われている最中なのと、ペプチドワクチンを続けている最中なので、直ぐに外に移るのが良いのか悩んでしまった。

周囲は即刻変わった方が良いと言う。あれこれ悩む。


2012年2月23日木曜日

ドセタキセル10クール目(7ヶ月目)、告知から1年7ヶ月、副作用対策をネットで発見

化学療法を開始して7ヶ月、PSAはまた上昇してしまい、13台に。がっかり。落ち込んだが、微増なので、医師は再度下がる可能性もあり、来月まで様子を見ましょうとのこと。来月再び上昇したら、ドセタキセルと併用している服用剤を変更するとのこと。またMRIも撮ることを考えましょうとのこと。転移が広がっているのだろうか。

現在、女性ホルモン+抗がん剤のエストラサイトを毎日4錠飲んでいるが、これをオダイン等に戻して様子を見ることも検討しましょうとの提案らしい。標準治療のレジメン(計画)では、一度効かなくなった薬は使わず、最終的には使う薬がない、投薬は中止ということになるのだが、現在はレジメンどおりではなく、なるべく早期にドセタキセルを開始しながら、色々な薬を試し、時間を稼ぐ方法も試みられているのだとのこと。でも、前回はオダインは殆ど効果がなかったので、どうなるやら。不安が再燃してしまった。お陰で寝られない夜を過したが、あまり考えても仕方がない(出来ることもない)ので、普通に生活することに、頭を切り替える。

ネットで調べたところ、爪、髪、味覚障害、手足の痺れ等は、ドセタキセルの投与(大体45分程度)の前後20分を含む1時間強の間に、保冷剤などで冷やすと表面の血行が悪くなり、障害が改善されることが分かってきたとのこと。学会報告も既にあり、日経メデイカルや、がんレポートや、乳癌などの患者さんのHPなどで紹介されていた。それ専用のキットも開発されており、アメリカの会社が冷却用の帽子、手袋、靴下の5点セットを通販で売っているのを発見したので、アメリカのアマゾンで早速注文しようとしたが、日本へは送れない(アメリカ国内ならば販売可能)とのこと。製造元のHPを見ると、世界中に代理店があり、どこでも販売されているのに、日本のみ代理店の記載がない。同じキットを日本国内の多くの大学病院が、既に患者に貸し出ししているらしい(乳癌の患者さんに)のだが、どうやって購入したのいだろう。ネットでは事情は分からないが、個人的に米国出張時、或いは米国経由で輸入しているのだろうか。5点セットで300ドルなので、欲しいのだけれど、日本では個人では買えない。厚生労働省はこういうものの規制は得意なので、輸入制限をしているのかもしれない。ありそうな感じ。

専用キットは手に入らなかったが、1時間程度、手足などを冷やせば良い訳なので、スーパーで保冷剤を大量に買い、百円ショップで大き目の靴下を2足、帽子を買い、ポットに氷を詰め、手作りで手足、頭、舌を冷やすことにした。当日ドセタキセルの投与直前に綿の靴下、手袋、キャップをし、保冷剤をおいて、その上から毛の大き目の靴下、手袋、帽子を装着したが、なかなか上手くいかない。固まった保冷剤は曲面ではないが、手足、頭は曲面なのでぴったりしない。また少々冷たすぎる。また、口に入れた氷は直ぐ溶けるので、手袋を外し、氷を口に入れないといけない。面倒なので、氷は諦め、手足に集中。帽子も保冷剤ではだめみたいだった。

但し、帽子は改良すればなんとかなるかもしれない。舌を冷やす氷は、難しそうだ。1時間も溶けない氷があれば良いのに。保冷剤を口に入れようか?ちょっとびびる。

余りにも冷たいかなと思ったが、直接保冷剤を手足に当てない限り、1時間ならば我慢はできそうだった。但し体が冷えるので、トイレ対策も必要かもしれない。


2012年2月8日水曜日

NHKでペプチドワクチンについての番組を見る

朝NHKでやっている「朝いち」で、ペプチドワクチンについての治療についての特集をやっていた。久留米大、東大、岩手医大での治験結果について、延命効果については有意の効果が認められること、しかし日本で保険治療として認められるには、安全性についての試験に時間がかかるため数年から10年はかかるだろうこと(欧米に比べて遅れているという、いわゆるドラッグラグ)、将来的には治療のみならず、癌にならないような予防効果まで期待できる可能性もある、というものだった。

前立腺癌について、久留米大の例も紹介され、大学病院の映像も映っていた。

とはいえ、久留米大の治療が混合医療だという(恐らくは)間違いもあったような(実態は、混合治療ではなくて、ペプチドワクチンに関しては保険が全く適用されない自費の治療のみで、保険との併用はできない。ドセタキセルが効かなくなった一部症例については高度医療の適用にはなるけれど)。また効果が劇的で元気になった人(膵臓がん、肺がんの患者さん)ばかり出ていたので(映像的にはそうせざるを得ないのだろうが)、もしかしたら効果について、少々過剰な期待感をあおったかもしれない。

気になった点は、ペプチドワクチンは元気な時にやるのが一番効果的であると多くの先生方がおっしゃっていたこと。確かに元気で、リンパ球も多くて活発でないと、効果が弱いだろうことは理解できる。しかし、現状では、最後の手段として使われている。私も元気なうちはホルモン治療で十分かなと思っていたし(仕事をしつつ、毎週羽田から久留米に通うのは覚悟がいる)、抗がん剤を使う段階になったらペプチドワクチンか、或いは抗がん剤が効かなくなったらペプチドワクチンかと思っていたけれど、どうもそれは標準治療優先という厚生労働省の方針に従っているからそうなるだけで、理想的な医療という訳ではないらしい。抗がん剤を使うとリンパ球が激減してしまうので、素人が考えても併用が望ましいとは思えない。抗がん剤の前に、ペプチドワクチンを単独治療するか、抗がん剤を休薬して使うのがベストなのだろう。しかし主治医が同意するだろうか。或いは患者が抗がん剤の使用を遅らせることを決意できるかどうか。結構難しい選択を迫られるのかも。私は、ペプチドワクチンを始める前に、抗がん剤治療が始まってしまっていたので、あまり深く考えなかったけれど。

番組を見た結果として、もっと早くペプチドワクチンを初めていたら良かったのだろうかな、とも思ったが、今となってはどうにもならない。

穿ちすぎだろうけど、ペプチドワクチンが普及し、一部のがんで延命できるようになると、抗がん剤で儲けている医薬会社には大打撃になるのだろうか。(○山ワクチンの例を見ると、そうとしか思えない。)厚労省にとっては、仮に健康保険代が抑制できても、これ以上延命されると、年金の支払いがさらにかさむことになるので、あんまり普及して欲しくないのが本音かもしれない。

2012年2月2日木曜日

ドセタキセル(タキソテール)9クール目、告知から1年7ヶ月目

ドセタキセルの投薬も9クール目となった。PSAはまた微増で、11台に上昇し、がっかり。主治医は、極めて事務的に、次回の投薬日を決めて、帰ってしまったので、会話の余地なし。

最近の副作用は、以前のような投薬後3日目から7日目に強いものが出るのではなく、3日目くらいからずーと副作用が続いている感じがする。以前は10日目くらいから元気に戻ったが、そういうことはなくなって、体力は実年齢+15歳という気がする。

抗がん剤を始める前は水泳教室に週2回通っており、結構きつかったが、何とかついていけた。投薬開始と同時に止め、今は週一回程度近所のプールで元気な時だけ、1時間1000メートル程度を軽く泳いでいる。先週元気だと思ったので、ゆっくりと1000メートル泳いだら、その後は立てないほど疲れてしまった。どうもまだ回復していなかったようだ。

殆ど力を入れない泳ぎなので、以前は疲れることはなかったが、8クール目からものすごく疲れるようになった。このプールには老人のグループが沢山来ていて、80代みたいな人も、ばんばん泳いでいるのだが、全くそんな連中の真似は出来ない。抗がん剤を始める前は激しい泳ぎもできたけれど、今は無理。クイックターンは怪我が怖い(足先がやられる)、早く泳ぐと腕をコースロープにぶつけて指先を怪我するかもしれない、飛び込みは禁止なのだが、あれも骨折のリスクが少しあるから無理だろう。赤血球がとても少ないから、有酸素運動の激しいのは無理なのだ。

下痢は薬で抑えているが、失禁等も日常茶飯事なので、外出はトイレがいつでも行ける場所のみ選んで行くことになる。

爪が割れてしまったので、常にクリーム等を塗り、夜は手袋をしている。100円ショップでそういう用途の手袋を売っていたので、大量に買い込んだ。爪を保護するマニキュアもあるらしいので、今度マツキヨで聞いて見ようと思う。


2012年1月27日金曜日

久留米も雪模様

2クール目の投与のために、また久留米へ。

この日は、関東同様に、九州も雪模様。関東人からは、九州は南国という印象なのだけれど、福岡は実際には日本海側の気候のようで、雪も結構降り、冬は寒い。とはいえ、大宰府を境にして、久留米辺りまで南下すると、気候も変わるのか、雪が積もることはなく、住民も関東のように手袋をする習慣はないようだった。窓の外は吹雪だなと見ていると、南の空は晴れていて日が差している、そして直ぐに雪は止み、日差しが出て、10分もすると、また雪が舞い、というまるで北欧あたりのような目まぐるしく変わる天気だった。

病院で、色々質問をする積もりだったのだが、メモを用意しなかったこと、単独だったのでいつもの癖で質問すること自体を忘れかけたことなどから、どの程度ワクチンが効いているのか、じっくり医師に質問することができなかった。免疫反応事態は「かなり良くなっている」とのこと。しかし、同日に受診していた別の患者さんが、PSAが大幅に下がったらしく、ドセタキセルの休薬についても主治医と相談できる程にまで改善した、というのを聞くと、大違いなのが実感できた。効いてはいるけれども、やはりドセタキセルの補助程度という効き方なんだろうと思う。

とはいえ、体調も概ね改善しているし、ドセタキセルの副作用は相変わらずながら、我慢できるようになったし(手の爪と下痢を除いて)、直ぐに死ぬとも思えないほど精神面も改善を見ているので、QOLの点でも効果があったのかもしれない。

病院の帰り道、JRの駅まで続く広々とした欅の並木道を歩く。ブリジストン通りという1キロ程度の素敵な並木道が昔の久留米城址の二の丸、三の丸を貫いている。駅まで15分程度の散歩道。びっくりしたのが、何とこの通りそのものが、ブリジストン社から市への寄付によるとのこと。久留米には、ブリジストン、石橋家が寄付してできた美術館(かなり立派)、公園、公会堂、博物館(城跡にある有馬記念館)など沢山あり、インフラ整備の一部を石橋家が担っているみたいだ。恵まれた町だなと思う。多分、大学も相当寄付を貰っているのだろうと勝手に想像。

2012年1月20日金曜日

久留米大ペプチドワクチン2クール目に

久留米大から連絡があり、ペプチドワクチン1クール目が終了した際の血液検査の結果、投与ペプチドに対する免疫反応が増加していると認められるので、2クール目に進むことが可能だとのこと。

この日は、午後から能楽堂でお能を見ていたのだが、最初の曲からぼんやりしてしまい、寝てばかり。詞章も良く読み予習もしっかりしたし、過去何回か見た曲だったのだけれど、うつらうつらしてしまった。突然、あれ、今日は連絡の日だった筈と思い出し、番組の途中でロビーに出て携帯を起動すると、久留米大から何回も電話が入っている。慌てて電話をしたら、担当の先生から、2クール目が可能なので、どうしますか、とのこと。お願いします、ということで、あと8回の投与に久留米へ通うことになった。

この日はとっても疲れていた。昼に食事をした御茶ノ水のキッチン・カ○リーという店では、風采が異様に思われたのだろうか、店に入った時から嫌な雰囲気。一番悪そうな席(入り口脇の狭い、風の吹きさらしのような席)に案内され、食事が終わっていないのに皿を下げられ、早く帰って欲しい雰囲気が明々白々。癌患者ってこんな風に差別されるのだろうか。髪がないってだけで、いかにも病人風ってだけで嫌な目に会うものなんだろうな、と初めて知った。お金を払う際、店はがらすきなのに、変な席に案内したことを多少は気にしたのか、「狭い場所で済みませんね」と女将が言ったのは、「もう来ないでね」とも聞こえたが。副作用もあり、そんなこともあり、気が重い日だった。

1時に始まった番組は、あと7時頃まで続く予定で、見たい番組がてんこ盛りだったのだが、健康第一であっさりと諦め、家に帰ってゆっくり過すことにした。帰りの電車で、短い電話での会話だったので、先生の話があまり良く理解できていないことに気付いた。「免疫反応が増加」といっても、ものすごく効果があった、少しだけ効果があったとでは結構差があるけれど、どちらなんだろう(多分後者かな)。増加したことは数値的に確かめられるとはいえ、PSAに影響していないようなのは何故なんだろう。

病院へ行ったら、先生に良く聞いてみよう。患者と殆ど会話をしたがらない主治医と違って、久留米大の担当の先生は、患者にできるだけ分かりやすく説明しようと努力する人だったので、率直に聞いてみようと思う。

とはいえ、駄目もとで、ペプチドワクチンをやって見たいと思っていたこと、主治医から抗がん剤は効いても半年と宣告されていたことから、もしPSAの上昇を多少なりとも抑える効果があるのなら、良しとしようとも考えていたので、多少なりとも効果があるのならば今後も続けたい。交通費や全額自己負担の医療費を考えると、現在引きこもりで実質失業中なので、頭が痛いけれども。



2012年1月11日水曜日

ドセタキセル(タキソテール)8クール目

今日は、9時半に病院に入り、血液検査の後、高血圧の薬を貰いに、内科に並ぶが、混雑のため、午前中には順番は来ず、午後の受診となった。主治医は1時に泌尿器科に来るようにとの指示なので、1時に泌尿器科へ出向くが、抗癌剤投与が開始されたのは、結局1時40分頃。何だかんだで、吐き気止め、タキソテール、ゾメターの3種の点滴が終わったのは4時過ぎだった。その後、内科に回って高血圧の薬を貰い、泌尿器科の内服薬を薬局で貰うと、病院を出られたのは4時半。一日近く病院に居たことになる。非効率で、時間の無駄と思うが、この病院ではこれが普通。

血液検査ではPSAは10台に下がっていた。徐々にではあるが、ほんの少しだけ低下している。喜ぶべきなのか、どうなのか。白血球は相変わらず多く、リンパ球は少なく、赤血球は少ない。

主治医に爪の変色や足の麻痺について聞くと、あまりひどくなると投与は休薬しなければならない、とのこと。基本的に死ぬまで続ける薬なので、休薬は、場合によると死に直結しかねない。PSAが大幅に下がったために休薬する例もあるらしいが、残念ながら、PSAが10台のぼくには当てはまらない話。

久留米大のペプチド・ワクチンの治験も、1クール8回の投与が終了したばかり。治験は、3クール、24回の投与まで可能だが、1クール終了毎に検査があり、効果がないと判断されると、次のクールは行われない。まだ検査結果が来ていないが、どうなるんだろう。あまり反応が見られない(しこりであるとか、腫れるなどの免疫反応が普通効果のある人には出るらしい)から、2クール目は期待薄かもしれない。費用のことを考えると、効かない薬にこれ以上お金を掛けられないのだが、とはいえ、そうなったらなったで、がっかりするだろうなあ。

ドセタキセルは効いても半年だろうとの主治医の予言からすると、そろそろ効かなくなる時期かもしれない。次の治験先を探そうと思うが、今の病院は治験は一切やっていないから情報もなし。隣の大学病院もやっていないようだし、また遠くの病院を探さないといけないのかもしれない。