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2013年8月2日金曜日

癌と診断されてから3年目、闘病開始から3年目

3年前の8月に、ある病院で前立腺癌の可能性が極めて高いと診断され、生検のため入院した。9月始めに、末期がんの前立腺癌との宣告を受けた。そして直ぐにホルモン療法を始めた。あれから3年目。とても長かったような気がする。激動の3年間。

引きこもりになり、付き合いが全くなくなった。手紙も年賀状も出さなくなった。免疫療法も試みた。さらに色々な治療法を勉強したが、結局は自分に合う治療法がなく、標準治療に戻っていった。

2年前の8月から抗がん剤治療が始まった。ドセタキセルは副作用が段々と強くなり、そして効かなくなった。全身の毛が抜け、顔ががん患者特有の丸い顔になった。

去年の4月に、緩和治療は家の近所で受けたいこと(病院は家から遠かった)、それまでの病院が閉鎖する予定だったことから、転院を計画し、今通っている病院へ転院の手続きをしたところ、幸いにも、治験を募集しているとのことだったので、治験を前提に、転院した。そして8月から治験を始めた。治験開始から1年になる。

8月は、病気の節目の月だ。いろんなことが起きた。

去年の11月からは、大腿骨に転移した癌の麻痺が原因で長い距離を歩けなくなった。そして家の中も車椅子を使うことが多くなった。

今は病状は安定し、痛みは麻薬で取れ、パソコンもできるようになった。外出は出来ない。麻痺があり、長い距離は歩けないから、介護が必要になる。

当初は、一人暮らしでも何とか闘病生活が出来ると思っていたが、大間違いだった。今は、姉と友人の介護があって何とかかんとか生きている状況。姉には、特に感謝している。母親の面倒も姉に見てもらっている。自分の家族もいるのに、更に母と僕の面倒を見てくれている。ありがとう、では足りないと思うけれど、ありがとう。友人にも、時々家に泊まってもらい、介護をしてもらっている。ありがとう。

今介護保険の認定を受け、色々なサービスを受けている(とっても有り難い)が、病状が悪化することが多い真夜中に介護保険では十分な対応ができないように思う。医療保険で訪問治療は受けられるけれど、そもそも、具合が本当に悪くなったら、痛みで身動きが取れない、痛みで頭が混濁し、電話を掛けるということに思いが行かない、だから電話を掛けられない。

夜に痛みが出ると大変だ。早く死にたいと思うようにさえなる。今は、病状が安定し、痛みも無いから、こうした雑文も感想も書けるけれど、痛いと、考えが停止したようになり、何も出来なくなってしまう。痛みをとるまで、私の場合、結構時間が掛かってしまった。

あと何年生きられるだろう。

2013年6月9日日曜日

高熱、肺炎でまた半月入院

5月の週末は朝から具合が悪かった。だるく、ぼんやりしている。体温を計ったら、38度5分もある。訪問看護医に連絡をとり、この日は様子を見ることにした。ところが日曜になっても、一向に体調は改善しない。どこかおかしい。また脱水になったのだろうか。水分は一杯とっているのだが。ということで、多忙そうな訪問看護医に無理を言って来てもらい、診察してもらったところ、何かの合併症をおこしている可能性が高いので、精密な検査のために、入院をした方が良いという診断となった。

とはいえ、日曜日なので、大学病院の主治医も、看護士もお休みである。知っている人はいない。従って、ただの救急患者の入院はかなりの確率で無理と思われたが、前の入院も同じ医師からの強い勧めに従って、かなり強引に入院させてもらったのが結果的に大成功だったこともあり、今回も訪問看護医の勧めに従うこととした。姉に付き添いを頼み、先生が用意してくれたストレッチャー付きの民間救急車で、姉とともに病院へ向かう。揺れの激しいタクシーでの移動には耐えられそうもなかった。

到着後、当直の先生は、予想通り、やはり入院について了解してくれず、ベッドも満床とのこと。しかし、こんなことで諦めてはいけない。治験中で、一人暮らしで、高熱を出していてリスクが高いことを説明し、入院が強い希望であることを姉から伝える。当直医は、検査結果を見て、特に入院を要するような症状ではないと言ったように記憶するが、こちらも粘り、差額ベッドを希望することや、放置すれば、合併症の恐れもあることなどを伝え、何とか入院させてもらった。

翌日から、CT、レントゲンなど色々検査をやったところ、肺炎との診断。肺炎って、老人がかかる病気じゃなかったっけ、と思いつつ、体力年齢は80代か、70代という現実を思い知らされた。やれやれ。半月もこのために入院する結果となるとは、入院当初は予想していなかったが、なかなか高熱が引かず、入院が長引く結果となってしまった。
昔、体力があった頃に、湯治に訪れた旅館の窓からの眺め。この旅館の一泊二食付きの料金は、個室病棟の一泊二食付きと殆ど変わらない。

2013年5月20日月曜日

本も、新聞も読め、DVDも見られるようになった

麻薬を痛み止めで使い始めて以来、頭がぼんやりしたり、集中できなかったり、眠かったりで、本が読めず、新聞もだめ、DVDも見る気にならなかったのだが、痛みがコントロールできるようになって(なんと11月以来なので半年ぶり!)、昔のように、本が読めるようになった。パソコンも使えるようになり、ブログも更新できるようになった。

村上春樹の新刊はまだ1ページ目だけれど、新聞は毎日隅から隅まで目を通して頭に残っているし、DVDも借りて見たりしている。そのうちに、展覧会にも姉に連れていってもらう予定。

麻薬を使っている限り、こうした活動(脳の知的な部分を使う活動)は無理かと思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。麻薬は使い始め、増量中などの期間に関しては、副作用が大きいようだが、頭が完全に停滞してしまうようなことはないようだ。

私が現在使っている治験薬の効果については、ある医師は、効き目が一定程度あると考えられるかもしれないと言い、ある医師は、懐疑的であると言い、良く分からないのだが、私は効き目があると信じることにしている。何と非科学的。でも、信じないと、薬は効かない。プラセボでも、信じれば、効く。どの道、治療法は残されていないのだから、止めるメリットはない。

痛みはコントロールできているのだが、残念ながら足の麻痺まではコントロールできず、歩くのに困難な状況にあるため、車椅子を使い、姉の介護の世話になっている。姉がいなければ、病院に行くことも難しいから、今の治療は続けられない状況にあり、とても感謝している。

恐らく、今の状態が長く続くことはないと思うので、今の内に、本を読めるだけ、読んで、近場の温泉など、行きたいところへも行って、人生を楽しむ(?)積もり。これ以上のことは出来ないのだから、高望みはしない。

また、年金事務所から通知が来て、厚生障害年金が貰えることになった。有り難い。一日でも長生きがしたい。

今の状況が一日も長く続きますように。


昔泊まった高級旅館の襖。紙でなく、更紗になっている。戸はないので、戸締りができなかった。鍵のない旅館に泊まったのはここだけ。(民宿では当たり前だろうが。)

2013年5月18日土曜日

痛みがひどくなり入院する

4月中旬頃から痛みがコントロールできなくなった。数日間痛みで寝られず、ある日は横になることもできないほど痛みがひどくなっていた。痛みに顔をしかめたり、反応がおかしかったりしたため、周囲の強い勧めで、主治医の病院にペインコントロールを目的に、入院してきた。

普段は二週間ごとの通院なのだけれど、その間痛みが強くなると、どうにもならない。4月中旬の外来での診察時に、痛みが酷いので今すぐ入院したい、と申し出たところ、4人部屋は一杯だが、個室は空いているとのことなので、迷わず個室に即日入院させてもらった。

私の通っている大学病院は、スパルタ風で、一部の看護士が、患者を高いところから見下ろしているような雰囲気があり、居心地は正直言ってあまり良くなかったのだが、半月入院したお陰で痛みから解放されたので、ま、いっか、という感じ。

毎日医師と適切な薬はなにか、試せたのはありがたかった。二週間に一度の通院だとそうは行かない。また、ついでに放射線治療(痛み止めを目的とした緩和治療)も受けることができ、とてもラッキーだった。病院は家から遠いので、毎日通院するのは難しいので、入院中に放射線治療を受けられたのはとっても幸運だった。入院させてくれ、放射線治療も受けさせてもらえたことについては、主治医と看護士の皆さんに感謝。また突然の入院に対応してくれた姉に感謝。

退院時の請求金額には正直腰を抜かした(は大げさかな)。けれど、痛みには変えがたい。

教訓としては、「痛かったら、迷わず、入院」。


昔泊まった高級旅館の縁側。今となっては懐かしい思い出。全くバリアフリーでないので、お金があっても泊まるのは無理。



2013年3月30日土曜日

ホスピスに通う

私としては、自分の家でもし可能ならば死にたいのだけれど、実際問題として、自宅で死ぬのは簡単ではない。一人暮らしをしているので、もし孤独死にでもなれば、家族に大変な迷惑を掛ける。医師に看取られないと、不審死の扱いになってしまうので、後々大変だ。

訪問医療や、介護の充実によって、一人暮らしでも、家で最期を迎えることは可能になってきているのだそうだが、1月の寒い夜に、一人で家で過している時に、大腿骨に転移した癌が神経を圧迫して生じた痛み(人生で最大の痛み、痛みスケールで10)を経験した時、余りの痛さ、辛さに、家で一人で死ぬのはとても無理だろうと思わされた。最大限の痛みが襲ってくると、思考ができない。歩けない、動けない、電話は掛けられない、そもそも何をすべきかを考えることができない。医師を呼ぶことは、恐らく無理だろうと思う。

ホスピスは数が少なく、病床数が限られているので、誰でも入れないということなので、近所のホスピスに、月に一度通っている。先方の医師に痛みや、治療の具合を報告し、まだ入院の時期でない、そろそろ入院した方がいい、といったことを先方の医師に判断してもらい、入院時期のアドバイスをもらうことになっている。

今はまだ、痛みは麻薬でコントロール出来ているし、一人暮らしもできている(外出できないので、買物は出来ないが、ネットスーパーの利用や、宅配や、介護保険の利用や、姉の支援で買物はなんとかなっている。感謝。)が、出来なくなる時期もそう遠い将来ではないので、心の準備だけはしている。

痛みは周期的に襲ってくる。痛いとき(痛みスケールで6とか、7)には、麻薬を追加し(オキノーム散)、何とかコントロールしており、今は問題ないのだが、1月の経験を思い出すと、今も心が冷える。心細くなり、ホスピスに早く入った方が良いのかな、と思うが、今日などは、元気で、掃除も洗濯も一人で出来たし、家事も出来たりすると、ホスピスなど、遠いことのように思えてしまう。

とはいいつつも、癌は悪化しているので、いずれお世話になるのだろうが、どんな生活になるんだろうか。考えると気が滅入るので、考えないことにしているが、気になる。




2013年2月7日木曜日

1月14日の雪は凄かった

遅ればせながら、新年おめでとうございます。殆ど旧暦です。

去年は、おめでたいことなど何も無い状況で、おめでとうございます、と言うことが、自分にとって、白々しいというか、気持ちにそぐわないように思えたのだけれど、今年は成長したのか、素直に新年はおめでたいと思えるようになった。

1月の連休に、友人の介護を得て、近所の温泉に湯治に行ってきた。湯治ならば、食事の用意、掃除洗濯などの家事が一切無いから、楽だ。問題は移動で、運転は麻薬を飲んでいるので論外(ふっと眠くなり寝ていることが多い)。車椅子の生活なので、電車一本で行け、混んでおらず、駅から送迎してくれる所で、館内は車椅子で移動できるところが良い。介護者の負担が最小限にならないと、だれも重病人の介護に付き合おうとは思わないだろうから(家族であっても事情は同じと思う)、そういう場所を探した。

神奈川県内の温泉宿で、安価で、送迎があり、館内バリアフリー(車椅子用トイレと、風呂の手摺の有無が特に重要)という条件にかなったものを発見したため、友人に車椅子を押してもらい、出かけて来た。

恐らくは介護者にものすごい負担を強いたと思う。何といっても、風呂に一人では入れなかった。滑ったり転んだりが怖いので、一緒に行って監視してもらっていないと風呂に行けなかった。また、部屋から出ることがないため、人によっては、観光ができないから退屈だろう。

連休最終日の朝、宿を出たときは、雨だったのだが、昼頃に、家のある駅に着いた時には大雪で、どこもかしこも雪だらけ。駅前のタクシー乗り場で1時間以上待ったが、タクシーは来ず、雪は激しくなるばかり。そこでタクシーは諦め、駅から自宅まで、車椅子を押して(乗っていたのでは全く雪のため進まなかった)帰ったのだが、湿った雪で服が濡れたこともあり、気温の低いこともあり、普通なら数分の道中が30分程度掛かってしまったこともあり、低体温症(ハイポサーミア)になってしまった。ろれつが回らず、うわ言のようなことをしゃべっていた。危ない。直ぐに風呂に入って体を温め、無事だったが、とんだ湯治になってしまった。

小田急のドクターイエローかな。



ホスピスを見学する

通っている病院に頼んでいた厚生障害年金の再申請用の診断書を受領した。これは密閉されず手渡されるから、中身は読むことが出来る。

予後を見ると、1年未満と書いてあった。そのくらいだろうと予想してはいたが、紙に文字で書かれたもので見ると、結構ショックだった。予後には、個人差があり、多くの人は医者の予想より多少長生きをするらしいとはいえ、予後1年未満と言われた人が3年生きる可能性は極めて低い。

ということもあり、痛みがひどくなり、歩けなくなり、一人暮らしが介護保険のサービスを受けていても困難になりそうな、遠くない将来のことを考え、ホスピスを見学に行った。ホスピスはがん治療は行わず、緩和治療、痛み止めの治療に特化した医療機関だが、とにかく数が少なく、関東では入院は数ヶ月待ちらしい。

ホスピスそのものが始めてだったので、施設見学を兼ねて、家の近所(とはいえ、1時間はかかる)のホスピスに出かけた。見掛けは豪華。内装も古いホテルのよう。医療のレベルは知らないが、居心地は悪くなさそうだった。問題は入れるかどうか。何せ11床しかない。自分の入りたい時期に空いていることは稀有。長く入りたくはないが、空いていますと言われたときに入らず、入院を先延ばししすぎると、結局入れない。

今の病院の治験が続けられる限りは、ホスピスには入れないから、治験終了後、自宅での療養を経て、体が動かなくなる、痛みがコントロールできなくなることの様子を見つつ、最後の人生へと踏み出すことになる。

いつまで今の治験が続けられるか、いつまで今の痛みのコントロールができるか、麻痺がどこまで進むか、によるだろう。できれば、今年の秋よりも先であって欲しい。

帰り道、同行してくれた姉からお墓の話が出た。家のお墓は田舎にあるのだが、遠く不便なため、新しい墓を買ったらどうか、とのこと。僕も、姉が相続することになる僕の自宅に、姉の子供夫妻が住んでくれたら嬉しいが、どうだろうという話をした。とりとめのない結論の出ない話。もう二度とするかどうかも分からない、しかし今まではしたことのない、踏み込んだ話。話しているうちに、涙が止まらなくなってしまった。

来年の正月をどこで過すことになるのか、生きているのか、頭の判断のできる今のうちに、財産の整理をしたり、家財の処分をしたりしようと思うが、今の体で出来るかどうか。悩ましいところ。


死ぬまでに登りたかった大山。病院の窓からの景色。

2013年2月2日土曜日

痛み止めオキシコンチンの副作用

通っている病院のペインクリニック(麻酔科)で、痛み止めの薬を出してもらっている。麻薬であるオキシコンチンとオキノームの2種が処方されており、オキシコンチンは朝夜の2回の服用、オキノームは痛いときに都度飲む薬だが、同一成分らしい。

麻薬は痛みをかなりコントロールしてくれるが、痛みの方が一定でなく、波があり、その最大の痛みに合わせて量を処方してしまうと、普段の痛みはそれほどでないので、副作用がひどくなる。だから、少なめに処方して、適量を見つけるという段取りになるらしい。ということなので、最初の内は、痛みの最大値がやって来た時に、処方量は不足気味なので、かなりの痛みを経験することになる。

医師は、痛い時にオキノームをどんどん飲めば良いと仰るのだが、1時間に1回までという決まりなので、痛いときは時計を睨みながら、1時間ごとにオキノームを飲み続けることになる。

オキシコンチンの適当な量が処方されたらしく、痛みはコントロールできるようになった。但し、麻薬の副作用で、いつも眠く、細かいことに集中できず、難しい本は読めず(最初は新聞も読めなかった)、DVDなども見られない。集中できず、疲れてしまう。

処方量を減らせば、元に戻るけれど、痛みがコントロールできなくなる。痛みと集中力なら、当然選択肢は痛みでしょう、ということで、本は読まず、読めず、ブログも読めず(今朝は珍しく自分のブログは書けているけれど、他の人のブログを読むのは無理)。

オキノームのほかの副作用としては、便秘になるらしい。便秘対策の薬をもらっているが、逆に便がゆるくなりすぎ、排便に問題が出てくるのが悩み。パンツがいつも汚れている。自分で洗濯するから良いものの、困った問題だ。

大汗をかく、涙もろいなどもこの薬のせいかと思っていたら、これは男性ホルモンを遮断したことによる更年期障害だそうだ。

大汗はひどくて、毎夜2回は寝巻きを着替えないといけない。びしょびしょというくらいに濡れている。当然布団も濡れるので、タオルを敷いて寝ている。更年期障害って、そんなにひどいだったのか。

症状が小康状態になり、気持ちも落ち着くと、あとどのくらい生きられるのか、気になってくる。1日でも長く生きていたいけれど、もし治験が中止になったら、使える薬がないので、急激に病状が悪化するかもしれない。こういう不安のせいか、いつも変な夢ばかり見る。この間は、その前の日に読んだ漫画の中に自分自身がスリップし、処方されている痛み止めの薬を転売する薬の売人になっている、なんていう刑事ドラマみたいな夢を見た。困ったもんだ。


2013年1月18日金曜日

要介護1の認定になった

去年の末に市役所に申し込んでいた介護保険認定の通知がようやく届いた。社会保険庁の手続きの煩雑さ、不快さ、遅さに比べれば、夢のようだ。これで、生活支援などが使える。既に電動ベッドも買った。電動式で、起き上がるのにとても楽。車椅子は、具合の悪い時には家の中でも使っている。

生活支援は週に1回、1時間掃除をお願いしている。風呂とか、トイレとか、シンクの掃除が苦手なので。前かがみになる作業は苦しいので、有りがたい。

一人暮らしなので、また外出が出来ないので、買物も頼めるらしいのだが、頼み方が分からない。予めリスト化しておいて、欲しいものを買ってくるのだろうか。殆どの買物は姉に頼んでいる。有りがたい。感謝。

年金事務所に障害厚生年金を再申請するのが良いのか、不服申立てをするのが良いのかを電話で問い合わせる。既に車椅子生活をしているので、不服申立てが通るだろうと思っていたが、どうも、だめらしい。医師の診断書が全てで、それだけで判断するから、不服申請しても通ることはまずもって無理とのこと。だったら申請の時にどうしてそう教えてくれなかったんだろう。明らかにもらえない内容の診断書だったから、前の主治医に書き直しをお願いすることも可能だったのに。

再申請をすることもできるらしい。ただ、申請から受給開始まで半年以上かかるから、生きている内に貰えるのかどうか分からない。

こうしたことを電話で教えてもらうのはとても大変で、かつ苦痛だった。年金事務所は、国民を不快な気持ちにするように作られているのだろうか。払わないことにはとても熱心だが、どうやったら受給できるのか、については教えようとはしない。受給資格があるのに。電話していて、苦痛で、悲しくて、無念で、泣いてしまった。

その日はトラウマで、病状が悪化したのか、寝込む羽目に。年金事務所はつくづく鬼門だ。