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2012年12月26日水曜日

故郷の山は大山

NHKで、年末番組で、東北特集をやっていた。震災で、故郷の町が瓦礫の山となり、多くの人が亡くなり、ある人は、財産も、住む家も、家族も、知人も、勤め先も失った。でも故郷の景色は、震災後も変わらず、桜は咲き、山は色とりどりに紅葉し、海は青い。そして、番組では、そんな過酷で厳しい故郷なのに、離れられない、離れたくないという東北の人々の気持ちを写し出していた。

6年程度しか住んでいない家の窓から見える大山を見る度に、なんだかほっとする。神奈川だと恐らくどこからでも普通に眺められる山なのだが、筑波山や富士山と違って、東京からは見えないようなので(見えていても、高峰でないのと、繋がっている丹沢山系の方が高いので、目立たないせいか)、有名な山ではない。江戸時代には大山詣はとても盛んで、落語に良く出てくるので、江戸庶民には親しい山だったようだけれど。

故郷に愛着がないのは、自分の家に愛着がないためと思う。子供の頃から、早く家を出たかった。学校も好きでなかった。何もかもが違和感があって、自分の世界でないように思っていた。何故だろう。良い所なんだけどね。住むには、物価は安いし、土地百坪の一戸建ての家が20代で建てられるし、車でどこへも行けるから、便利ではあるのだけれど。

オランダに住んでいる従兄弟が先日帰国の折り、見舞いに来てくれたので、故郷の話になった。彼女も故郷が好きでなく、早く家から出たいと思っていて、卒業後旅行会社に就職し、オランダに赴任し、そのままになってしまったらしい。僕も留学時に、日本に戻りたくないと思っていたので、機会があれば(実際には無かったけれど)、別の人生になっていたかもしれない。

ぼくにとって懐かしい気持ちを起こすものは、今は大山の景色で、赤城山でも利根川でもない。室生犀星のように、故郷が憎い訳でもない。朔太郎の詩は好きで、彼の詩に読まれた前橋郊外の景色、自然は懐かしく感じるけれど、あくまでも詩の中だけであって、現実の前橋の町を懐かしく思うことは全くない。

だから、故郷に執着する人の気持ちが、今ひとつ分からない。

歩いて行けた最後の音楽会。NHKホールの最後列からの舞台の眺め。遠いが、音響は良かった。



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