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2012年9月19日水曜日

デーケンの「死とどう向き合うか」を読む

上智大の先生だった、アルフォンス・デーケンの「死とどう向き合うか」を図書館で借りて読んでいる。結構ためになる。

死に関しての教科書のような、網羅的な本なので、一杯いろいろなことが書いてあったけれど、私にとってためになったのは、死に直面した誰もが経験する、心の移り変わり(過程)についての部分と、死への恐怖をどうやって克服すべきか、また恐怖は克服でき、幸せな死を迎えることもできるという部分だった。

本書によれば、末期の患者の心の揺れ動きには、共通の死への過程(プロセス)があり、5段階か、6段階に分けられるとのこと。

①「否認」 殆どの末期患者は、告げられた事実(例えば、余命三ヶ月)を否定する。自分が死ななければならないという事実が認められない。

②「怒り」 何故自分が死ななければならないのかという怒りを周囲にぶつける段階。医師は患者とのコミュニケーションが持てない。

③「人生の見直しと再評価」 人間関係のトラブルを解決しておく時期。苦しい治療を受け入れ、延命を望む時期。この時期は短いが、理性的になり、周囲に対し開放的、協調的になる。

④「抑うつ」 死が近づくと、抑うつが現れる。周囲はもう何もできなくなる。

⑤「受容」 避けがたい死をという運命を平静に受け入れる。

⑥「期待と希望」 死後、愛する人との再会を期待する。死後の世界を信じる人の場合に多い。

私について、振り返ると、まだ否認と怒りの段階なんだろうか。まだ半ば引きこもっているので、③の段階にあるとは思いにくい。面会は断っているし。人によっては、積極的に自分の末期がんの経験を講演会や患者会などで話し、他のがん患者を勇気づける活動をする人もいるようだ。まさに③の段階にある人なんだろうが、私はそうなることはなさそうな気がする。

また、本書によると、全ての人が⑤、⑥の段階に進むとは言えず、稀には最期まで自分の死を否定したままで死んでいく人もいるという。著者によれば、⑤、⑥にまで進めた人の方が幸せな死を迎えているという。そして、死生観、宗教、死への準備によって、死に臨む態度は違ってくる、という。

確かに、最期まで、自分は不幸だったと喚きながら死ぬのか(私の母が残念ながらそうなりそうな気がしてならない)、周囲に私は幸福だったと言って死ぬのかでは、死に方として大きな差があるだろうと思う。本人にとってだけでなく、残されたものにとっては、その差は大きいだろう。

更に、本書によれば、幸せな死を迎えるには、患者は死への恐怖を乗り越えなければならない。著者によると、死への恐怖には幾つかのタイプがあるという。

①「苦痛への恐怖」 がん死は痛い。がんによる痛みに苛まれて死ぬのが如何に辛いものかは、既に入り口を経験してしまった。

②「孤独への恐怖」 病院や家で孤独な死を迎える恐怖は強い。見捨てられている、と感じる場合、こうした恐怖感が強まるような気がする。

③「家族への負担になることへの恐怖」 既に入院、通院などの治療で物理的、経済的、心理的に家族には大きな負担になっている訳だが、終末医療の介護や看護が負担になると思う気持ちが恐怖になるという。患者が働き盛りの男ならば、残された家族の経済的、心理的負担に対する恐怖も一層強いだろう。

④「未知なるものを前にしての不安」 死ぬ経験は誰もしたことがないので、教えてくれる人がいない。ただし、この不安は先の「死の過程」を理解し、死への準備をすることで、大きく緩和される。

⑤「人生を不完全なまま終えることへの不安」 私のような家族がいないものは、将来弔う人がいない。特にライフワークはないけれど、中途半端な人生だったような気がしてならない。幸せな死を迎えるには、本書によれば、自分の人生が不完全ではなく、肯定的なものだったと捉えることができるようになる必要があるらしく、結構重要らしい。

⑥「自己の消滅への不安」 これは動物的、本能的な不安感なんだろうと思う。

私に関しては、苦痛への恐怖はとても大きい。また、私の死が引き起こす家族、友人への負担感、喪失感(家をどう整理するのだろう、家財の処分はどうするのだろう、墓はどうするのだろう、私がいないという心理的な穴はどう埋めるのだろう、などなど)に対する恐怖がある。動物的な死への不安感も強い。人生が不完全なまま終えることに関しては、独身で中途半端に生きてきたし、家庭人としても、社会人としても成功しないまま病気になったので、それはそれで受け入れざるを得ないという諦めの気持ちがあるけれど、素晴しい人生だったなどと、無理やり肯定的に受け入れるのは無理のように思う。  



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