ページビューの合計

2012年9月22日土曜日

藤野邦夫「ガンを恐れず」再読

ご自身も前立腺がんになり放射線治療を受けられ、がん難民という言葉を広めたことで知られる藤野さんの本。

昔読んで、今また読み直している。

この本で、特定の健康食品を堂々と勧めていたりするので、毀誉褒貶があるようだが、とはいえ、なかなか立派な本で、一読の価値があると思う。

藤野氏は、アメリカの文献等と自分の経験から、がん治療とは、がんと闘う主役は自分の免疫システムであること、だから無自覚に医師の治療を受けるのではだめで、自分の病状を正確に理解し、最適な治療法を自ら探し、求めるべきで、また不安ではなく、希望をもって暮らすことが大切だと説いている。

特に、セカンドオピニオンや、医師、看護士への積極的な質問、会話などを利用しながら、最適な治療法を患者側が主体的・自覚的に判断しなければならない、と再三再四力説している。自分の命に関わることなので、他人任せではだめだ、ということなんだろうと思う。

但し、それがいかに困難なことかは、嫌と言うほど体験した。だからこと、本書を読み返す意味があるということかもしれない。

私は海外の学校で教育の一部を受けたためか、日本社会では浮いてしまいがちで、主張が強い、生意気だと言われ続けてきたが(海外では、逆に主体性がなく、何を考えているのか分からないなどとと言われていたのだが)、それでも実際にがんになり、病院で自分の病状や治療法について、医師と会話するのは、とっても勇気と気力と体力が要ることで、先方に全くその経験や意思のない医師が少なからずいるために、そんなには簡単ではないと思った。医師にもよると思うけれど、質問されることを嫌がる先生が実際にいたので(前の主治医などその典型かもしれない。若い先生だけどね)。


7 件のコメント:

  1. まさぞう様
    本を読まれてるようですね。きっと体調は落ち着いていらっしゃるのだと思いますが大丈夫でしょうか?痛みはないですか?
    このような本は、確かにためになる。のだと思います。自分の心や考えを整理するにも、落ち着かせる為にも、ためになる本なのだと思いました。
    私もまさぞう様と同じように思いました。③の段階なんて、なかなか進めません。しかし進める人はきっと、ひと握りの人だと思います。無理に進もうとしなくていいと思うのです。(スミマセン私個人の意見です・・・)
    勿論、進めたら、ここに書いてあるように心が穏やかになり、幸せなのかもしれませんが・・・
    私も進める自信はありません。前向きに考えられたり、でもやっぱり不安が襲ってきて・・の繰り返しだと思います。
    あと、ほとんどの人間が人生、中途半端です。完全燃焼して人生すばらしかった。なんて思えて死ねる人なんかもほんのひと握りだと思います。

    人生の後悔も喜びも何も振り返れず、身の回りも少しも整理できずに心筋梗塞や脳卒中、事故等で急死される方、それはそれで心残りで自分だったら嫌です。
    しかし、前立腺癌のように、癌末期ではあるが、色々なホルモン剤や抗がん剤で延命できる=(不安な事、後悔ばかり考えてしまう時間が長く長く続く・・・)のも、精神的にとてもとても辛いと思います。

    まさぞう様は今とても精神的にお辛いでしょうし不安だと思います。私なんかが偉そうに考えを述べてすみません。(生意気のようでしたらどうぞ削除してください・・)
    いったい私は何をいいたいのか、感じてるのか分からなくなってきましたが・・・
    自分がまさぞう様の立場だったら、きっと同じように考えていると思うのです。
    えつ

    返信削除
  2. えつさん 私も2年前は、末期がんと告知され、余命が短いことを知り、ショックで、周りを恨んだり、引きこもったりしました。今もショックであることには変わりはないのですが、多少は慣れというか、諦めというか、受け入れざるをえないこともある、という気に次第に変化してきました。悲しいことですが、どうしようもない、抗いようもないことなので。

    えつさんはまだお若いので、死を直視するのは大変だろうと思います。私は自分の父親の死を経験し、多少死ぬこととはどんなことか、分かったような気がしました。それは、死ぬのが怖いのは、30でも、50でも、80でも変わらないようだ、ということです。おそらく100歳のひとでも死ぬのは怖いのではないでしょうか。だからこそ、死の準備をする、ということに意味があるのだろうと思います。

    返信削除
  3. ・・・・・
    祖父は97歳でボケもせず財産分与から葬儀屋まですべての段取りを自分でして逝きました 最後は見舞いに来る客には思い残すことはないよ・・と
    言っていましたが怖かったのでしょう夜は眠れず昼間うとうとする日が続くようになっていました
    祖父が亡くなったとき祖母は老人性の痴呆症がかなり進んでいて自分の連れ合いがいなくなったことがわかるんだろうか・・という状態でした

    私の父は祖母と折り合いがあわず 母親に愛されなかった という記憶の持ち主でした 祖母が何度か入退院をした後いよいよ最後か?と思われる時に見舞いに行った父が ばあさん黄疸で黄色くなった もうだめだと母に笑って言ったそうです あの母子には何があったんだろうね・・と母と私は話したものでした
    母が結婚生活三十数年かかってすこしずづ聞き出したところによると
    父には戦死した兄がいて母親思いで優秀でこんな田舎から士官学校にいって祖母は溺愛していたようです
    私が記憶しているのは祖母が父のことを あの子はあまのじゃくだから・・と言ってましたね・・たしか・・
    父は13歳で旧制中学に行くため下宿生活 ホームシックもあったでしょう
    休みになって喜び勇んで家に帰った最初の母親の言葉が
    玄関の靴をきちんと並べて入りなさい だったそうで・・父はよっぽど落胆したのでしょう 忘れられない出来事のひとつだったようでした

    そんな鬼っ子の父でも死んだ兄にたくされ家を継ぐことになり見合いで母と結婚し別々に暮らしていましたが祖父母が70歳を越えた頃そろそろ身の回りの世話をしてほしいといわれ 実家に戻りたくない父はなんと母と子供だけを戻す逆単身赴任という荒業をやってのけ以後十数年続きました
    母親に愛してほしかった父なのに自分も家族団らんが苦手だったようで私自身もあまり父に愛された記憶がありません
    68歳で父が急逝したときはまだ仕事もしていた人だったので退職してただのじいさんになったら折に触れどんなに寂しかったか愛してほしかったか切々と訴えてやろうとたくらんでいました 意地を張ってた私の分も息子にじじのすねをかじらせようと思っていたのに・・・

    父が急逝した後 慣れるのに4~5年かかったでしょうか
    生前から仕事を理由に家にいない人だったので
    ひょっこり帰ってきそうな気がしてなりませんでしたよ


    私のコメントはいつもしょうもないオバちゃんの世間話だな~

    返信削除
    返信
    1. 磯つぶさん 私も、母親とはうまく行きません。がん告知をされた後、実家から会社に通えないことはないので、同居も一時検討したのですが、最終的に彼女との同居は自分の寿命を縮めるだけ(彼女の寿命もでしょうが)と判断し、止めました。

      母親とは、電話や、会って話していても、つい今までの全ての嫌な事がフラッシュバックのように次から次へと思い出され、とても不快な気持ちになります。お父様とお祖母様の関係は、良く理解できます。どうしてそうなるのか、私は一種の病気かなと思っています。親子間でも、愛情のないことは相手に伝わりますから、それが関係を悪化させるのかもしれません。

      デーケン先生の本では、そうした悪感情は死ぬ前に克服する必要があるのですが。。

      削除
    2. 病気ではありませんよ
      みなさん そうです たぶんね
      日々フラッシュバックしてくるリアルな思い出を頭の中で蹴散らしながら新しい日々を積み重ねているんじゃないのかな?
      もし 私の父親が生きていて私がせつせつとねちねちと満たされなかった思いをぶつけても父親の心に届くとは思っていません 娘に諭されるなんてプライドの高い父にあり得るはずもなく 何倍ものひどい言葉 冷たい言葉が返ってくるだけだとわかっています
      それでも言うだけ言ってやりたかった・・
      それで サッパリしたかったのです 自分がね(^_^;)
      さっさと死んじゃって 残念だわ----

      削除
    3. 追伸
      父が亡くなるまで許せなかったわけじゃないですよ(~_~;)
      いつの頃からか どうでもイイことになり
      そうなると何を言われても気にならなくなり
       4年間子供にめぐまれず悩んでいたときに
       いつまで遊んでるつもりだ!?という台詞をはく父でした
      今でも父のことを思い出すとこの時の凍りついた瞬間がフラッシュバックしてきますが いつのまにか駄々っ子の部分を消せなかった父を愛しくさえ思えるようになりました 時々ですけど(^_^;)  

      父が亡くなったとき病院のトイレで声を殺して大泣きしたっけ(^_^;)

      削除
  4. 磯つぶさん

    どこの家にも、他人には言えない悩みがあるのですね。うちだけじゃないんだなあ、としみじみ思いました。

    返信削除